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自己責任論の拡大について


事実世界のいたるとこで、労働者や貧しいものたちの液化が始まっていた。特にいちじるしいのは集団的な液化であった。大きな工場で機械の運転が不意に停止し、労働者たちがいっせいに液化して、ひとかたまりの液体になり、小川になって戸の隙間から流れ出したり、壁を這い上って窓から流れ出したりした。(安部公房「壁」第三部、赤い繭)


前々回、「”ありのままの私”幻想」の中で自由とは水のようなものだ、と表現しているのは水の持つ二律背反の性質が人間の自由意志と共通しているからだ。既に説明したように、水は四角い器に入れれば四角く、丸い器に入れれば丸く収まり、自由な形を取れる。しかし、その器を返せば水はこぼれ、覆水盆に返らずというように、元の形に戻すことはできない。そして、その「器からこぼれた水」を自由と表現する者と、「器の形に収まっている水」を自由と表現する者がいるのである。

もしも人間に完全な自由を許したとき、当然のようにその自由の行使として「何か/何者かに完全に支配され、個我を失う」という自由も許されることになる。そうして、こぼれた水が低きに流れることに抗えないように、人間の意志もまた、器を失えばどこまでも堕落してしまうものだ。

つまりここに、「完全な自由のひとつの結末として、個我の崩壊、そして集団的自我(いわゆる全体主義)への回帰」もまた存在し得るということが言える。



さて、自由経済主義とそれに伴う自己責任論―――つまりお前が貧しいのはお前が悪いからだ、と社会福祉の考え方を根底から否定してしまう理念―――に関して最大の謎を挙げるのならば、経済競争における敗者、すなわち貧困者が増えれば増えるほど自己責任論は衰退し、貧しい者や弱者に対する理解も進むはずであるのに、実際はむしろ貧困が進むほどに自己責任論が拡大せんばかりの隆盛を極め、さらに不可解なことには貧困者さえ貧困を認めず、攻撃さえし得るという現状が確かにある。

貧困に関しての論議は不可避的にひとつの歪みに吸い込まれる。たとえば僕やあなたが、あるいは特定の職種の人たちの手取り賃金が14万円しかない、と言ったとしよう。そうすると必ず次のような反論が現れ、一種のおかしなすれ違いの様相を呈する。

1、私も手取り14万円だが、私は貧困だと思っていない

2、手取り14万円になったのはあなたの責任だ

3、私の手取りは14万円ではない


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