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残酷にも自分の善性を信じ続けろ

たまに気が向いて美術館とか文化的な場所に行くと、まあお婆さんでごった返しているので不思議になる。お茶をしているお婆さんたち、観劇するお婆さんたち、街角で立ち話するお婆さんたち、似たようなのをお爺さんの集団で見ることはあんまりない。そしたらお爺さんたちはどこに閉じ込められているのだろうか、と。

お婆さんたちの活力といったら年老いても尽きることはないらしく、趣味があり、友達がいて、若いのにも増してかしましく、責務から解放された今が人生の本番という印象さえ受ける。ところが労働から解放された男はもう何をしたらいいのか分からなくなるようで、近頃は知り合いの父親が定年早々に呆けてしまったという話を立て続けに聞いている。男は社会との接点が希薄で、役割がないと関わりが持ち辛い側面があるのだ。



女が子供を生む、子供の肉と血は女の身体の一部であり、子供は女の乳によって育てられる。それで自然、女と子供の関係は深いし、強い。これは何もしなくても、そのまま強い。
それでは、男はどうやって子供―――すなわち社会の現代であり、未来であるもの―――との関係を作るのか、男は肉も血もやらなかったし、乳をやるわけにもいかないのだから、人工的に関係を作るほか女と太刀打ちする方法がない。
それで男は社会的価値観念という幻想的産物を発展させて、女に対抗したのだと思う。 (「母性社会の必然性」オノ・ヨーコ,1973年)



そこで確かに、男性―――特に社会的役割を放逐された高齢―――が女性に対してコミュニケーションを渇望するのは、女性の男性に対するそれに比して深刻なように思える。コンビニや安いチェーン店で老人男性が若い女性店員に執拗に話しかけているのを見ると、ああ自分もいつかああなるのだ、としみじみ思う。これがただの世間話ならまだしも、話しかける理由がないあまりに説教やクレームぎみに対話を試みる人とか、モラハラ気味のコミュニケーションしか取れなくなってしまう人もいる。老いと孤独でコミュニケーション能力が、好きな子をいじめる小学生のレベルにまで退化してしまうらしい。これが社会で、家庭内で日常的に起こっている。

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