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「井戸に毒」のデマに見る、「2ちゃんねる的インターネット」を引きずる人々

2021年2月13日の地震後、Twitterなどで「~~が井戸に毒を入れた」というデマが多数投稿されました(現在は多数のアカウントが凍結済み)。これは1923年の関東大震災後の(虐殺の発端ともなった)悪質なデマが再生産されたものですが、なかでも一部は「匿名掲示板型のアイロニー」という文脈によってパロディされたものであり、擁護する立場の者の主張によれば、これは「パロディ(つまりパロディ元への批判的な笑い)」―――すなわち「ネタ」であるので問題ではない、とのことです。

このような書き込みが「なぜ問題なのか」については、もはや説明するまでもないほどに論じ尽くされているので、今回はむしろ「なぜこのような書き込みが起こったのか」について考えてみましょう。



アイロニーとしてのパロディ


さて、先ほど触れたように、この「悪質なデマのパロディ」および「これは政権による人工地震だ」というような「パラノイア的な陰謀論のパロディ」などは、匿名掲示板型のアイロニー、つまり「嘲笑すべき対象」の所作をトレースすることでそれを揶揄するという特有の文化の延長として捉えられます。

「嗤う日本のナショナリズム(北田暁大)」では「背理のコミュニケーション(橋本良明)」の「きれいな顔だね」という皮肉を用いて、以下のようにアイロニーを説明しています。



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△アイロニーの構図(「背理のコミュニケーション」による。

A,O,Xは筆者による補足)


自分以外の仮想の人物に視点を移し、その人物に「話し手」の役割を担わせて発話行為を遂行する場合が存在するとして、それをいま仮に「仮人称発話」と呼ぶことにする。……アイロニーの正体とは、結局、字義通りの発話が可能な人間に視点を移し……陳述行為を行うという「仮人称発話」なのだというのが本稿の結論である。
(「背理のコミュニケーション(橋本良明)」p82)



(1)は、対象O(聞き手)にかんしてAが「きれいな顔だね」と誠実に(つまり皮肉ではなく)発話した場合、(2)は逆に誠実に「きたない顔だね」と発話した場合である(※)。
話し手が皮肉の意図をもって「きれいな顔だね」と発話した場合が(3)である。そこでは、Aは自らの発話主体性を括弧に入れ、対象Oを高みにみる仮人称Xに立場を仮託して発話している。(※)この場合、端的に「きたない顔だね」というよりも、「AとOの『距離』とOとXの『距離』を足した分だけ現実との乖離が生じる」ために、より大きな効果を得ることができる。(「嗤う日本の『ナショナリズム』」p109、北田暁大(※部中略を含む)」)



ここでのアイロニーとは要するに、「何かを信じている・感じている主体」の模倣をすることで、その不確かさ・滑稽さを浮き彫りにし、発話自体を否定ないし揶揄しようとする試みのことを言います。

匿名掲示板でこのようなアイロニーが好まれる理由はいくつかあります。ひとつには、「きたない顔だね」という直球の揶揄は、「対象がきたない顔であると信じている主体」による発話、つまり主観に過ぎないという反証が容易に可能だということです。「きれいな顔だね」というアイロニーは、「その顔がきれいだと思っている」あるいは「きたないと思っている」主体への帰属を避けたまま、「きれいな顔である」と信じる主体の発話をトレースすることで、その滑稽さの「自覚を促す」形式の批判(揶揄)です。

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