夢、という病気

僕たちは皆、生まれてほとんど間もないときから、それこそ物心つく前から夢を持て、と言われて育つ。大人たちにはしつこく将来何になりたいのか、夢はあるのか、と言われ、映画を見れば夢を持ち、それに向けて邁進し、幸福な人生を獲得せよ、と言われる。歌を聞いても、本を読んでも、成功したという人に会っても、同じことを言われる。

だが、僕らのほとんどは、つまらない事務作業をこなしたり、地面に穴を掘ったり、トイレを掃除したり、四六時中くだらない文字や記号の羅列を書かされて生活することになる。シンデレラがトイレ掃除をして金持ちの王子と結婚するのに対して、僕たちは反対に夢を持って生まれ、最終的にはトイレ掃除をして死ぬ。世の中で必要とされているのはそういう、くだらないことばかりだけれど、誰かがやらなければ回らなくなるようなことばかりだ。


古い物語のなかに登場する幸福、というものは非現実的で、いかにも気休めという感じのものが多い。実生活で幸せになれなくても、気休めがあれば人はその日を乗り切って、生きていける。だから、それらを総括して「で、最終的に何が言いたかったのか」と考えると、全くわけがわからなかったりする。それは昔、物語を意見やプロパガンダと考えたときの整合性を保つ必要がなかったからだ。

では、今はどうか、というと本当に進化の果てといったふうにきっちりしている。いわゆるディズニー的な映画では、それは綿密に、夢を持つこと、夢を持つとどんな苦難が起きるとか、夢を実現するにはこうしたらいいとか、そういったプロセスを説明して、そこに現代の思想、差別をしてはいけないとか偏見はよくないとかいう要素まで盛り込んで、見事に矛盾なくひとつの物語に仕上げる。

で、こういった物語を総合するとだいたい「誰かが」「苦労して」「願いをかなえる」という構文になっていて、それはそのまま見る者に「努力して」「夢を/幸福な人生を」「手に入れるのだ」というメッセージになる。

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