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私は救われてはならないという意識ー犠牲者化する人

「私がどんなふうに犠牲になるのか見て。私にこんなことするなんて、なんてひどい人たち。でも私は耐えるしかない」。犠牲者となることが、サイクルの一環となります。犠牲者は、見捨てられたり、利用されたり、虐待されたりしたために、すでに自分に対して悪感情を抱いています。この人たちは、自分に安全と安心をもたらすような行動をとらず、そのため、さらに過酷な見捨てられや虐待を招く結果となります。(「私は親のようにならない」、クラウディア・ブラック)



暴力やハラスメント、虐待や利用、その他の理不尽な被害との遭遇は、ある人から、安全な生活の中で人並みの幸福を求めるという意志を剥奪することがある。この人は、表面的な正常さや健全さが保たれている現実のすき間から理不尽や暴力が蔓延る地底に「転落」した人だといえる。

自分には幸福になる資格がない、と考えている人にとって、理不尽との遭遇をただの理不尽と認めることは難しい。この人たちは、自分に訪れた理不尽を一種の「必然」であると考えることで、外傷的な過去に自らを投獄し、「犠牲者としての私」という主体性を自分自身に刻印する。この状態にある人は、犠牲者としての過去の自分に報いるために犠牲者であり続けようとする―――つまり、無自覚に被害を繰り返そうと試みる点で危険な状態にある。

犠牲者化した人は、自分という全体の一部として被害が存在するのではなく、被害そのものを自分のアイデンティティにしてしまう。自分に対して、犠牲者でない時間を過ごすことを「許す」ことができなくなってしまう。犠牲者が、理不尽に遭遇することをイレギュラーな出来事と捉えることができず、避けられない必然的な運命だと考える原因は自分自身に対する罰感情である。犠牲者は、理不尽に遭遇したのは自分のせいだとどこかで考えることによって、理不尽を正当化する。

ここにはひとつのジレンマがある。犠牲者は、自分自身を許すことができれば、自分は悪くなかった、つまり自分はたまたま理不尽に遭遇したという認識によって過去を乗り越えることができる。しかし、なんの落ち度もない自分が理不尽に遭遇したということは、かえってそれを防ぐ手立てがないということを意味する。自分の受けた仕打ちには何の理由も必然性もなく、そこから得るべきものは「何もなかった」と認めなければならないのである。



犠牲者化と不平等の感覚


犠牲者化した人には不平等の感覚が訪れることが多い。自分の受けた仕打ちや、被害の存在する暗い世界を無視して、明るい世界で健全に、幸せそうに暮らす人に対する羨望や憎悪に近い感覚である。健全に、幸福に暮らす人への憎悪は、ますます犠牲者を被害的な生活に固定させる。自分が幸福に暮らすことは、過去の自分に対する、そして自分のような目に遭っている人に対する裏切りだと感じてしまうためである。

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