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”代わりに遊んでくれる”ものたち

俺の頭の中で起こってる変化ってのはね、反射神経で喋ることにね、要するに、テレビってのは堪え性がないから、それはこっちが勝手に思ってることなのかもしれないけど、何秒に一回ギャグ言わなきゃみたいな強迫観念がある。そうすると、ひとつのストーリーをさ、こう蓄積していって落とすみたいなことを段々しなくなってるでしょ。そうすると俺なんかは、そろそろ客がね、ここらでまた変なこと言わないと引っ張れないなってさ。実際客も飽きっぽいんだよ。そうするとね、全然脈絡もない頭になってるのよ、自分が。脈絡もないときに脈絡もないことを言いだす、っていうことを延々やってるから。そうするとこれは、これを見てる子供たちとか、大人もそうだよ、そうしないとならない、そうしないと耐えられない人たちを作ってんじゃないかなと。おこがましいかもしれないけど、そういう気がしてるんだよ。(ラジオ「爆笑問題カーボーイ」、太田光)



世界中の膨大な情報や他人と接続された電子機器を持ち運ぶようになってから、僕たちはいかなる時間をも退屈から解放し、その代償としてどのような断片的な退屈にも耐えられない断片的な人格を持つことになった。どれほど些細な時間も退屈してはならないという強迫観念によって、複雑な布石によって最終的に意味を持つ類のものがしだいに価値を失っていく―――引用部分のラジオ以降、ネットが急速に発達したことによってその危惧はより現実性を増したことを付け加えなければならない。

「本が読めない、映画が観られない」で示した断片的な人間性は、退屈を恐れ、常に娯楽と接続していることを望むいっぽうで、その娯楽の中には一種の退屈を望んでいるというダブルバインドの状態にある―――つまり、自分が好きなことをしているという事実に対しては時間に最大の敬意を払うものの、その好きなものが無駄であるか有意義であるかという点に関しては時間はまったく唾棄すべきものになり果てるわけである。



娯楽に耽溺するとき、人間と時間の関係性にひとつの変化が起こる―――主従関係の逆転である。人間は時間を消費して、その代わりに何らかの成果物を得る。しかし、この関係性が崩壊すればまったく逆のこと、すなわち時間が人間を浪費して何かを獲得するという状態が起こり得る。この関係性における人間は、自分の時間を目的のために利用するのではなく、子をあやす親のように、時間そのものを退屈させないために時間に対して奉仕することになるのである。

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