見出し画像

非モテは不幸だという呪い

人間ははじめ無能の役立たずとして産声をあげ、そして遅かれ早かれ無能の役立たずになって死んでいくものである。人間の本質を有用さと無能さのどちらに置くかで迷ったら、まず後者と考えて間違いないだろう。したがって、私たち人間は大なり小なり自分の無能さを受け容れなければ立ち行かなくなる時がやってくる―――無能な自分に対する否定的感情は、自分自身に対してか、それを転嫁された他人に対する攻撃として結末するだろう。相模原障害者施設殺傷事件などはその結末の一例である。

無能で役立たずな自分に対する愛情を私は自己肯定感と呼んでいる。しかし、無能で役立たずな人間に対する愛情のまなざしを示すもっと普遍的な名前がある。人権である。人権は、どのような人にも変わらない条件で一様に存在している。私が人権を、ほかの何を差し置いても最も偉大な発明だと感じざるを得ないのは、それが存在するという主張なしには存在し得なかったものだからである。



さて、この文章には「非モテは不幸だという呪い 」というタイトルがついているのでそろそろ本題に入らなければならない。「 性がゲーム化することとその弊害について 」という以前の私の記事について、小山晃弘さんという方が「女性特有の認知の歪み」であるとした発言が少し話題になったためにこのへんの顛末を知っている方もいるかもしれないが、私は男性であるのでこの方とは何らかの齟齬が起きているのである。

この話題に触れる前にいったん、インセルやミグタウといった概念を知っておく必要がある。インセルは「不本意な禁欲主義者」の略語であるが、もともと外部から集団をさす造語であるために定義することが難しく(またたとえば「非モテ」という集団にしても、付き合ったらだめとか、いや女性と普通に会話できたらもう非モテではないというふうに内部で分裂が起きて分類が困難になるが、インセルでも同様のことが起こる)、厳密な意味については自力で調べてもらうとして、一般的には「攻撃的・女性蔑視的な態度に転化した非モテ男性」というイメージで定着しているものである。(※筆注:せっかく同じnoteの記事なので インセルの思想と歴史について実はメディアは全く語らない をおすすめします。)

一方ミグタウは、Men Going Their Own Way(自分の道を行く男性)の略であり、インセルと同様に女性と関わることが困難な状況に端を発している場合もあれば、そうでない場合もあるが、決定的に異なるのは最終的に女性関係を必要ないものとして断つという結論にある。インセルの攻撃的な転化はあくまで女性との関係を望むがゆえのものであるが、ミグタウについては女性との関係を断つこと(一種の出家)が歓迎されるので、最終的には憎悪ないし敵対的な関係も結ばれない。

この点では、リベラル・フェミニズム、ジェンダー論やポリコレ的なものとインセルは決して相容れないが(彼らにとってはこうした「公平な」理念が弱者男性という悲劇を生んでいるのである)、ミグタウに関してはこれらの概念と両立可能―――もっと言えば、女性を男性から「自立」させるフェミニズムの立場の男性版的なものと考えることさえできるだろう。



画像1

△女性主体への戸惑い


ここから先は

7,400字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?