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主観的な世界の貧困化―――実存主義に向けて

たとえば書物とかペーパー・ナイフのような、造られたある一つの物体を考えてみよう。この場合、この物体は、一つの概念を頭にえがいた職人によって作られたものである。職人はペーパー・ナイフの概念にたより、またこの概念の一部をなす既存の製造技術―――けっきょくは一定の製造法―――にたよったわけである。したがってペーパー・ナイフは、ある仕方で造られる物体であると同時に、一方では一定の用途をもってもいる。この物体が何に役立つかも知らずにペーパー・ナイフを造る人を考えることができないのである。ゆえに、ペーパー・ナイフにかんしては本質―――すなわちペーパー・ナイフを製造し、ペーパー・ナイフを定義しうるための製法や性質の全体―――は、実存に先立つといえる。(「実存主義とは何か」、サルトル)



わたしたちが、なぜ自分は「生きていてよい」のかと定義する方法は―――すなわち、自己の存在を肯定する方法は大きくふたつに分けられる。一方は、わたしがわたしであることを条件づけるものの承認(たとえばわたしはこれができる、人に愛される、誰かの役に立っている)を経由する方法であり、もうひとつはそれらの条件を経ずしてわたしの存在そのものを肯定することである。

自己愛と自尊心の違い 」では前者を自己愛、後者を自尊心と区別したが(以下の図を参照)、とりわけ後者に比重を置いた考え方は哲学的には実存主義と呼ばれる立場に分類される。



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実存主義において、存在は大きく道具的存在(目的を持った存在)とそうでないもの(ハイデッガーの言う現存在や事物的存在)のふたつに対比される。道具的存在とは、何かの目的を持って作られたもの、あるいは何かの役に立つために存在しているものであり、たとえば冒頭のペーパー・ナイフは紙を切るという明確な目的のもとにデザインされている。

一方で、道具的存在と事物的存在は根底からその定義を分けられているものではなく、たとえばガラス片でもペーパー・ナイフの代わりに使えば道具的存在であると言えるし、ペーパー・ナイフも折れて使えなくなれば事物的存在―――ただの金属片だといえる。

そして当然、この焦点はわたしたち人間にも向けられる―――人間は何かの「目的をもって」生み出されたものなのか、それとも何の意味もなくこの世界に生まれてきたのか。



「実存は本質に先立つ」という実存主義の立場では、人間は非道具的な存在、すなわち何らかの目的<なにかに役立つために>生まれているのではなく、まず存在が先立っており、そのあとに何らかの本質(人間としての様相や条件)を自らつくりだすものとして描写される。

反対に、人間には何かの本質や目的があらかじめ備わっており、そのためにこそ人間は存在している―――という立場をとる場合、人間の存在条件はその目的をみたすことであり、目的をみたすことのできない人間は自己存在を肯定することができない。

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