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本が読めない、映画が観られない

実例をあげてみよう。私はある学生に、なぜいつも授業中にヘッドフォンをかけているのか問いつめたことがある。彼は、どうせ音楽を聴いているわけじゃないから問題ないだろうと答えた。また別の授業で彼はヘッドフォンはしていないものの、そこからは音楽が微音量でなりっぱなしになっていた。今度は電源を切るよう注意したところ、彼は自分でさえも聞こえないのに、と返事した。ではなぜ音楽を聴かないのにヘッドフォンをかけたり、またヘッドフォンをしないのに音楽をかけっぱなしにするのだろう。それは、ヘッドフォンが耳にあるという存在感、または音楽が(聞こえないにせよ)流れているという了解によって、[娯楽の]母胎がまだ手の届く範囲にある、という安心感を得ることができるからだ。
(「資本主義リアリズム」p67、マーク・フィッシャー)



希望が失われて欲望が唯一の指針となった個人主義の時代に、社会にはかつてないほど娯楽や快楽が溢れ、さらには消費扇動の原理によって欲望は肯定こそされ一切の決定的批判を受けない聖域に属していると言える。

快楽に浸り、抜け出せない一種の禁断症状に陥っている若者たちをフィッシャーは「鬱病的快楽主義」と表現している。いわく、通常の鬱病では非快楽の状態が継続するのに対し、この状態にあっては快楽を感じないのではなく、むしろ「快楽を求める以外何もできない」のだという。

資本主義リアリズムから年月を経て、スマートフォンの躍進やネットコミュニティの発展によってこの傾向はさらに顕著化し、一種のSNSやコミュニケーションツールに代表される他者との繋がり、あるいはそれを代替する動画サイト、ゲーム、その他の娯楽から片時も―――それは移動中、仕事中、睡眠前から睡眠中、さらには別種のもっと長期的な娯楽の最中にあっても―――手放せないものとなる。いわゆる「本が読めない、映画が観られない」という多動症的な症状は、これらの”繋がり”の母胎から絶たれることの苦痛によって引き起こされる。



この変遷について脳科学的な説明を借りるならば、人間の脳は消費のために快楽的な側面を過剰に強調されたものに対応できず、そのほとんどに対していわゆる中毒症状を引き起こす危険性に晒されている。

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