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資本主義の客体化

豊かな個人主義の世界では夢の名のもと、希望の名のもと、個性の名のもと、自由の名のもと、あらゆる可能性が個人のもとに開かれ、そして可能性とトレードオフになっているもの―――必然性を失う。

自己に対してより大きな可能性を開かせるために、個人はより大きなばらの庭に身を投じ、その代償として価値競争に身を置く。価値競争に駆り出された個人は、自己のうちの数値化できない要素―――つまり当人の本質そのもの―――を定量化可能な単位に置き換え、しまいにはそっくり他者と交換可能な自己へと作り変えてしまうのである。



資本主義は淡々と新たな価値を発見し、そしてその価値を数値化していく。あらゆるものが価値によって並列化可能であるということは、すなわち全てのものが2つに分類されるということを意味する―――つまり、商品化された商品と、未だ商品化されていない商品である。

人間を含めたいかなるものも、商品としてある前にそれ自体であり、商品であるというレッテルも、それに対して付与される価値も存在そのものに比べれば副次的な要素に過ぎない。しかし、ひとたびあるものが商品視されると、途端にその価値に対する闘争が始まり、存在はその闘争に不可避的に巻き込まれてしまうのである。

存在や行為に価値が付与され、対価が支払われるということは、その存在がそれ自体であることよりも優先して商品価値を高めること、つまり「他者にとってより良いもの、より望まれるもの」を志す義務を負うことを意味し、これによって主体的な存在は客体化され、自己自身から消費物に貶められてしまうのである。

例をとれば、女性の肉体に対して金銭を支払う人間がいるとき、女性の肉体は商品やサービスであるのか、という視点が浮かび上がる―――そこでフェミニズムは女性性が消費物であるという視点に対して抵抗を試みる。女性の肉体の、とりわけ男性に好まれる特徴は、それを商品視する視点によって客体化<他人のためのものに>される危険に晒されることになるが、ここで問題なのは「価値がある」と見積もられることでも「価値がない」と断じられることでもなく、価値によって測られるという視点そのものにある。

さらに複雑なのは、ものごとの本質がその客体ではなくそれ自体によるものであるという前提に基づくのなら、たとえば女性の肉体から女性的特徴を取り去るということによって商品視されることを避けたとしても、客体化の作用によって本来の姿から遠ざけられていることには変わりないという点である。客体化される存在はあくまで、それが何よりも優先してまずそれ自体であるという証明によって自己の主体性を取り戻さなければならないのだ。



ものごとの価値を測るという行為が個人の行動に対してもたらす重大な作用は、客体化によって個人の意志をそっくり奪ってしまうことに他ならない。なぜなら、商品の価値を高めるということは否応なく存在を商品視すること、つまり自由意志に基づいた存在ではなく”誰かを喜ばせるための存在”として見ることを求めるからだ。

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