見出し画像

資本主義ゾンビ・ガイド

これからスタートする有料連載の説明をさせてほしい。

さて、映画でも見てみよう。それか普通にテレビをザッピングするのでもいい。スマートフォンを取り出して気鋭の実業家のツイッターを覗くのでもいいし、ひどい翻訳とフリー素材でコラージュされたライフハック記事を見るのもいい。

そこでは必ずこう書かれているはずだ。

人生は素晴らしい、人はなんとしても生きるべきだ。夢は素晴らしい、夢を叶えるのに手遅れはない。愛は素晴らしい、それはどこかであなたを待っている。運命はどのような人にも用意されている。

その時はそうなんだ、と思う。頑張ろうかなと思う。だって頑張れば夢は叶うんだから。

だが実際の生活はそうではない。夢は叶わない。競争で一番にはなれない。理想の恋人は坂道を転がってこない。運命どころか煩わしいトラブルの他には何も向こうからはやってこない。そもそも頑張れと言われても、自分が頑張れる人間じゃないのを痛いほど知っている。



気付いたらひどく疲弊している。家にひとりでいる時に、ふと考える、何かがおかしい。あいつはあんないい家に住んでいる。あいつは結婚した。あいつは―――で、自分の目の前に広がっている生活のみじめさに愕然とする。これがあの、”素晴らしい””人生”と呼ばれているものなのか?

単刀直入に言って、フィクションや広告の中で語られるこうすれば幸福に、あるいは良い人間になれるという提案は全てプロパガンダだ。こういったものは聞こえがよく、その時は素晴らしいトリップ体験を与えてくれる。だが、それらが紛れもないファンタジーであるために、たった一週間でその効果が切れ、反動でむしろ憂鬱の要因にさえなっている。

僕はここ何年かの間、正直に言って憔悴しきっていた。

日常のおぞましさに、こんなことの繰り返しに耐えられないと感じていた。かといって、何かを変えようにも、全てが手遅れで、八方塞がりだった。

自分の中でなにか重要で本質的なもの、何とは言い表せないものが確実かつ不可逆的に、流出していくのを感じていた。でもそれが何なのか分からないし、それについて考えること自体が恐怖だった。



夢を売る、という言葉は的を射ている。夢はまさに商品だ。宝くじと同じで、ほとんどの人には当たらない。で、クジが外れた後にこう言う、「このドキドキする気持ちに金を払ってるんだ、それでいい」と。当たらなくてもいい、自分に少しでも可能性があると感じられるならそれで生きていける―――それがまさしく夢の素晴らしさであり、夢のもたらす副作用、憂鬱のもとでもある。インチキ宗教、誰でも1億円儲けられる情報商材(それが本当ならなんで自分でやらずに貧乏人に売る?)、根拠のない健康食品、ギャンブル、みんな本質は同じで、消費者は可能性というファンタジーを買っていて、それ自体に満足しているようだった。

僕はこういったもの、つまり夢は叶うとか、人生は素晴らしいとか、真実の愛はあるとか、正義で悪を殴るのは楽しいとか、そういったプロパガンダを全て拒否することにした。何か月かはかかったけど、正直なところ、指一本も動かせないほど億劫だった時期に比べ、露骨に体が軽くなって、行動的になることができた。

そこで考える。僕たちはあれが欲しい、これが欲しいと願う。あんなことがしたい、こんなことがしたいと願う。だけれど、どれだけ必死こいてそれを手に入れても、一向に幸せになれない。それどころか、これを手に入れても幸せになれない自分という絶望すらおまけされる。

では、何でそんなものが欲しいと願ったのか?あるがままに言うと、僕は自分が何が欲しいのかなんて分からない。どこへ行きたいのか、何をしたいのかも分からない。僕たちは、願っているのではなくて、願わされているのではないか?



願望の消失はもはや個人的な問題ではない。大多数の人が、何が欲しくて、何がしたいのかが分からない。だからただお金がほしいと思う。死にたくないと思う。お金も生命も、何に使えばいいのか全く分からない。

僕はプロパガンダを含まない、つまり夢は叶わず、競争に勝者がいるなら敗者もいるという当たり前の事実に向き合ってくれる人の言葉をかき集めた。そこで全ての問題を集約するひとつの軸を主観の喪失というテーマに据えた。あらゆる価値、つまり人が何かを大切に思う気持ちは数字に置き換えられ、その過程で本質を失う。主観というあやふやな価値観を捨てて客観という普遍的な価値観に依存し、しだいに自分の願いを見失う。

その果てに、誰もどこへ行きたいのかわからず、ぐるぐる回り続ける世界がある。僕はメモ帳に「資本主義ゾンビ」とタイトルをつけて、加速する社会で現代人を襲う憂鬱の正体を考え始めた。



「資本主義ゾンビ」では月額300円で約8本の文章を配信する。

毎週月曜日に、マガジンのタイトルにもなっている「資本主義ゾンビ」と題した文章を配信する。あらゆるものが加速する現代において憂鬱がどこからやってくるのか、かつてないほど真剣に考察する。愛は素晴らしい、夢は叶う、人生は素敵だ、といったポジティブなことはここで一切語られない。そういったプロパガンダは映画やフィクションに任せるとして、ここでは夢が叶ったり、運命の人が階段から転がり落ちてこない現実でどうやって”普通に”いられるかを考えよう。



同じマガジンで、木曜日にはその他のやつを配信する。この枠では直近でなんだこれと思った人やことについて書く予定だ。僕の考えでは、本当に思っていることを言ったり書いたりすることはとても難しい。語気を強めて人を傷つけるような言い方をしている人でさえ、本当に思っていることは言えない。憎悪にかられると何も見えなくなり、かえって攻撃が当たらなくなるからだ。そのぶん悪口にはセンスがいると思う。



「資本主義ゾンビ」は公開から約一週間(初回~第二回は前提部分なので永続的に無料)、その他の記事については0~1日程度の無料期間を設ける予定なので、月に300円のお金を払うのが惜しい人は公開直後にご一読いただきたい。

最後に。このマガジンで書くことについて、何か意味があると思える人はとても限られている。この問題について考えることはほとんど得がないか、場合によっては損すらするかもしれない。それでも応援していただけるなら幸いだと思う。


第一回へ


                   (2019/9/2 小野ほりでい)



















この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?