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「大切なものがある」とは何か

愛されて育った人、すなわち理由なく存在を肯定されて育った人ははじめに「わたしは存在していてよい」という感覚を持っている。そして二次的に、存在していてよいわたしはどのように生きるか、という条件が生き方に加わる。

一方で、愛されることに奉仕や見返りを求められ続けた人は、「わたしは何かを差し出さなければ存在してはいけない」という無意識的な不安を抱えて生きている。この人は、自分で自分に生きる許可を与えるのではなく、他者に奉仕することによって欠乏している自分の存在意義を埋め合わせしなければならない。このとき、他者に奉仕する卑屈さと、他者を介して自己愛を満たそうとする傲慢さが両立する。依存的な人は、卑屈であると同時に傲慢でもあると言える。

愛されて育たなかった人は、生きていてよいから生きる手段を選ぶのではなく、欠乏した自己に生きていてよい理由を供給し続けることが目的化する。



存在する理由を外界に求め続けなければならない人が持っているのは消耗する精神である。この人は誰かに依存したり、何かに没頭することで自己欠乏感を穴埋めしようとする。この過程で他者に依存し、強欲な態度を取って負担をかけたり、何かの中毒になって抜け出せなくなる。しかし、どれほど没頭しても不安は解消されず、苦しみはますます増大する―――これも私を「幸せ」にはしてくれなかった。

そして、これが私を幸せにしてくれるという過大な期待を寄せる対象は人から人へ、ものからものへ移り変わってゆくが、繰り返すうちに徐々にどんなものも私の欠乏を埋めてはくれないという諦観があらわれはじめる。この反復する過程はちょうど穴のあいた器に水を注ぎ続けるのにたとえることができる。この諦観によって、新しいものや人に触れる意欲は徐々に失われ、ただ苦痛に耐えるだけの生活が訪れる。ついに、ごまかしの幸福を求める努力さえ放棄したとき、無気力や無感動の症状に見舞われる。



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このときの主体<わたし>と客体<あなた>の関係を追ってみよう。ここでの客体は他者や世界のさまざまな事象を意味する。

わたしがあなたに関係するとき、あなたはその関係の方法に応じてわたしに何らかの干渉をする。その干渉を受け取ったわたしは、またその方法に応じてあなたに干渉する。主体と客体、たとえばわたしと世界の関わりは図のAような相互的な関係によって構成されている。

このとき客体である<あなた>は、<わたし>との関係においてある特定の振る舞いを見せる。たとえば、わたしが優しさを求めているのならあなたは優しく接するかもしれないし、わたしが悪意を持って接するならあなたは冷たく接するかもしれない。そして、わたしに冷たくしたあなたを、わたしは冷たい人だと思うかもしれないが、それはあなたが冷たいという本質を持っているのではなく、わたしが、あなたが冷たくなるような関係を結んだだけだといえる。あなたは、わたしではない人と関わるときには優しい人であるかもしれないし、またわたしの関わり方が違ったものであれば違った振る舞いになるかもしれない。

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