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合理的な反出生主義


子供を作るか、作らないのか。それは理性の決定にゆだねるべき事柄ではない。人間が理性的に判断を下しうる問題ではないのだ。(「素粒子」、ウエルベック)



人間ひとりの価値はいかほどのものだろうか。生命という不定形のものの価値を測ることは難しいが、支払うべきコストから逆算してそれを推し測ることは可能だろう。たとえばこの国では子供を産み育て、教育し、立派な成人として社会へ送り出すまでに少なくとも2~3000万円がかかると言われている。それだけの支出をともなって実現される物体であるならば、支出に相応の価値があると考えるのが自然だ。

加えて、子供の世話は莫大な手間と時間を要求するだろう。これらの要求に対して親は、あくまで愛情をもって対処しなければならない。親の個人的な時間、恋愛の自由、多額の支出、こういった多大な犠牲を伴ってようやく子供は社会に生まれくる。では、その子供は犠牲に見合うだけの価値を返すものだろうか?



全てのものごとの性質をその価値によって知ろうとするのであれば、つまり資本主義的でありたいのならば、ものごとの関係性は価値の交換、購入によって理解されるだろう。愛は素晴らしい、友人は素晴らしい、家族は素晴らしい―――こういった関係性賛美に対しても価値は反論可能である。発生している損害と支出による不利益はあなたが享受する利益を上回っていないか?こう問えばいい。そして恐らく、これによって全ての関係性は不可能になる。

生的なもの、そして生的な関係性についてただひとつだけ確実なことを言えば、それは害悪を伴っている。生きるとは害悪に直面することであり、関係とは害悪を介在させながら見てみぬふりをすることである。したがって、生きることから害悪を根本から排除したいのなら、生きるのはやめるべきであり、関係から害悪を取り除くなら、関係することをやめなければならない。そしてこの事情によってリアリズムは不可避的に一種の孤独に直面することになる。

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