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すみやかな整頓<カウンター・カルチャーの死>

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自然界や原始的なコミュニティ、あるいは学校のように閉鎖された環境では生体の関係性はごく単純な三角形<ヒエラルキー>で表現される。上に行くほど少数の淘汰するもの<強者>が支配し、下に行くほど多数の淘汰されるもの<弱者>がひしめく。ヒエラルキー内部における階級闘争の結果はすべて身分という”上下”しか持たない軸上の動きに帰結され、そこに”個”の情報が記録されることはない。

そして、この自然界のように「最適化」されたヒエラルキー構造に対する反駁こそがいかなる時代においても意味を持ち、歴史の変更を担ってきた。



そこにあっては、成功さえもが失敗を意味した。というのも、成功することとは、システムを肥やす新しいエサになることにすぎないからだ。(資本主義リアリズム)


価値観と価値観に対する反抗、そして価値観の更新という絶え間ない歴史の繰り返しの果てに資本主義は終着点として訪れた。資本主義はそれ自体として意思を持たず、顔もない、鏡のような存在だった。資本主義を攻撃するとき、人は鏡に映った自分、つまり人間の持つエゴ、自己拡大欲求、競争心、飽くなき生への執着そのものと相対することになり、むしろ自己批判的にならざるを得なくなるのである。

ヒエラルキー内部における勝利は個に対してヒエラルキー階級の改善という報酬を約束するが、それ自体がヒエラルキーの存在意義をさらに高めてしまう。カウンターカルチャーの顔として現れたロック・ヒーローがやがてメインストリームに押し上げられるように、意思を持たない資本主義に対する本質的な反抗は不可能であり、勝利し、成功することによっても、敗北し、立ち去ることによっても資本主義はより強固に塗り固められる。

資本主義が人に約束するのは全てのものに”商品価値”を見出すこと、そして個々が商品価値のために競争することで、その原理の中には消費に対する反駁そのものも含まれる。資本主義の完膚無きまでの見事さは、あらゆるものに対して本質的に「価値がある」か「価値がない」かの一軸評価が可能であることを発見・証明した点にある。結局のところいかなる個の持つ思想や善悪に関する提案であっても「価値がある(よって受け入れられる)」もしくは「価値がない(よって淘汰される)」のどちらかにしか帰結せず、あらゆる勝利や敗北は資本主義の据えた「価値がある・ない」の軸の正しさを再証明するものにしかなり得ない。

資本主義の普遍性の根源は価値や善悪に対する主張を一切持たないことだ。「何に価値があり」「何に価値がないか」という価値観の方向性が時代によっていかに変化したとしても、「価値があるか」「価値がないか」という軸そのものから人間は逃れられない。そして、「何に価値があり」「何を唾棄すべきなのか」というこれまでに繰り広げられてきた主張とは、アイスクリームのフレーバーと同じように、各々が価値を誇示するための味付けに過ぎない。

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