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恵まれることへの罪悪感と嫉妬

人は生きるために何らかの欲望を必要としている。動物の場合は、食べる、飲む、眠るといった生理的欲求に従って生活していれば問題ないが、人間の場合はこれらの欲求に何らかの精神的な要素が付随し、欲望を形成する。

たとえば、食べることが”親からの愛情”の無意識的な代理になっているとき、この人は不安や愛情渇望を感じると食べすぎてしまうかもしれない。あるいは、自分は愛情には値しないと感じている場合、この人は反対に食べられなくなってしまうかもしれない。このような場合には、破壊された欲望は取り込んだ欲求をもろともに阻害し、生活や生命を脅かしてしまう。

抑うつ的な状態では、しばしばこのような形で欲望が減退したり、破壊されたりすることが中心的な問題になる。抑うつ、あるいは自己否定状態にある人は、欲望への罪悪感を覚え、自分が欲望への接続を禁止されていると考える。次に、この禁止が他人に投影されると、他人が不正を働いているという感覚(いわゆるルサンチマン)に襲われ、他人の欲望に苦痛を感じてしまうようになる。それは、他人の欲望を介して自分の罪悪感が喚起されるからである。

現在のように、ネットを通じて他人の貧しさや豊かさが混在している状況では、他人の豊かさに嫉妬を覚えたり、反対に貧しさに罪悪感を覚える傾向は以前にも増して精神的な負担を伴うと言えるだろう。



罪悪感ー嫉妬のシステム



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△罪悪感ー嫉妬の系



「ケーキを食べたい」という欲望でたとえれば、この状態は「ケーキを食べることは食べられない人への不正である」という感覚にあたる。私がケーキを食べることは、誰かがそれを食べられないことを意味する。この人は、自分がケーキを食べることによってそれを阻害される幻の人物のためにそれを「我慢する」のである。

一方で、この自己に対する禁止の状態は他人に対しても同じ監視を要求する。ケーキを食べることを自己に禁止している人は、そうしている他人が禁止を破っていると感じる。もちろん、自分で自分に対して禁止していることを赤の他人が知る由もない。

この2つは、「食べられない人がいるのにケーキを食べてはいけない」という禁止をめぐって現れた別の形式に過ぎない。したがって、ここでは「あなたが得られないものを私も我慢する」という罪悪感、そして「私が我慢しているものを我慢せよ」と他人に求める嫉妬は表裏一体を形成していると言える。

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