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攻撃的な人は強い人ではない

先日、ジャーナリストの伊藤詩織さんに対する名誉毀損で計3人が提訴されたのを受けて、うちの一人である漫画家のはすみとしこさんがSNS上で反応を示した。内容は伊藤さんに向けて、あなたの提訴の影響で私のところにも誹謗中傷が集まっているとか、自死した木村花さんを引き合いに出して「私がそうならないように注意すべきだ」というようなもので、端的に言えば自分を被害者の立場に置いて提訴してきている相手に甘えるようなものである。

ご存知でない方に説明すると、はすみさんは「そうだ難民しよう」という文言を加えて、他人の金でしたたかに生きているように演出した難民少女のイラストだとか、冒頭の顛末の原因となった、性被害者が実は枕営業を試みていたという趣旨のイラストに類する、勇ましい反リベラル的な風刺画を持ち味にしている方であり、このような弱々しい態度は少なからず意外な印象を受ける。

ネット上では特に、勇ましくふるまっている人間が、突然弱さを露呈したり、破綻する瞬間がしばしば見られる。しかし見方を変えればこれは必然でもある。攻撃的な人間はある瞬間に弱くなるのではなく、弱さを隠蔽するために攻撃的に振る舞う必要があるからだ。



さて、上の例のような、傷ついている人の存在を認めない心理については「公正世界信念」という言葉で説明がつくかもしれない。人間の信念は精神の安定という重要な役割を担っているが、その安定にとって最大の脅威となるのは世の不合理である。つまり、この世界では何の落ち度もない人間が悲惨な目に遭うが、その理不尽は耐えがたいので、悲惨な目に遭ったのは何かの落ち度があったからだという物語が必要になる。この合理化によって自分を不合理から隔離し、自我の安定を図るのが「公正世界信念」の機能である。たとえば、何の落ち度もない女性が性被害に遭うという現実は理不尽で信じたくないものなので、服装が悪かったとか行動が軽率だったとかで合理化しようと試みる人たちがいるが、これは公正世界信念の発露にほかならない。落ち度のない人がひどい目に遭うという事実は、自分が住んでいる世界の基盤を揺るがしてしまう。

これを前置くと、難民や性被害の真相が金銭目的であるという妄想には「そこに傷ついている人がいない」という共通点が浮かび上がってくる。もしも難民の境遇や性被害の苦痛が<捏造された物語>であれば、そこにある恐ろしい世の中の不合理に私たちは向き合わなくて済む。

ついで攻撃的な人、なかでも「傷ついた他人」を認めない人にはもうひとつありがちな特徴がある。それは「自分が傷ついていること」を認めない点である。上のはすみさんの抗議は、見ようによっては自分が傷ついていることをほのめかすものであるが、同時に「表面的には」傷ついていることを決して認めていない部分が重要である。つまり、「私も傷ついていないし、あなたも傷ついていない」というのがこの人の立場の表明なのである。誰も傷ついていないというファンタジーによって自我は「公正な」世界に引き続き安住することができる。



傷つかない自分像


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ところで、人間には共感という能力がある。説明するまでもないが、辛い人や悲しい人にふれて自分まで辛い気持ちや悲しい気持ちを共有してしまうという感情の特性である。

セカンドレイプと呼ばれる、性被害者に対してさらなる攻撃が加えられる現象があるが、これには先程の公平世界信念に加えて「共感の拒否」という視点が必要になる。何かの理不尽な被害に遭っている人に出くわしたとき、私たちはその人に寄り添って苦しみを共有することができる。しかし、何らかの事情でもはや苦しみたくないと考えた人にとって「被害者」の側に立つことは自分のものでない苦しみをさらに請け負うことになる。そこでむしろ被害者と対置される加害者側の立場に加担することによって、苦しみへの「共感」から逃避することができる。

「となりのトトロ」で女の子が、おばけ屋敷と揶揄される古い家でススワタリという妖怪に遭遇し、「わー!」と大声を出して脅かすシーンがある。子どものころ兄に、この大声は子どもほうの恐怖を表していると説明された記憶がある。本当は、怖がっているのは子どもの方なのだが、大声を出して「脅かす側」に回ることで、自分が抱えている恐怖を「相手のもの」にすることができる。詳しくは以前書いたので省くが、自分が抱えている受け容れがたい感情を誰かに責任転嫁し、心的負担を軽減する防衛機制を投影という。

似た例では、子どもがお化けの仮装をするのは、自分を怖がらせる「お化け」になり変わることで恐怖を「自分のもの」でなくし、復讐ないし克服するためのものだと言われる。このような、被害者が加害者に立場を鞍替えすることで心を守ろうとする試みをA・フロイトは「攻撃者との同一視」と呼んだ。

攻撃的な人格に同一化する行為は「自分の傷」の否認と解釈することができる。これ以上受け付けられなくなった外傷を他人のものにするため、人は攻撃する。攻撃的な人が強く見えるのは、自分の外傷を他人に押し付けているからに他ならない。




ネット・SNS時代で人間の共感能力が引き起こす大きな問題は、どこにいても、何をしていても「苦しんでいる誰か」の声が侵入してくることである。苦しんでいる人の叫びや抗議の声を心地よく感じる人間などそうそういない。そうでなくても自分の苦しみを抱えているのに、他人の悩みになど係っていられない。そういう事情で呼び出されるのが自己責任論である。

自己責任論の本質的機能は、苦しんでいる人間は自助努力を怠っただけなのだから私が同情する必要はないという共感性の切り離しである。際限なく視野に現れる他者の苦しみを、自分には関係ないものとして押し返し、共感することによって請け負うはずの苦痛を軽減できる。一世紀前の心理学者であるアドラーがごく最近になって復興されたのは、アドラーの唱える課題の分離が「他者の苦痛」がもたらす心的負担の軽減に役立つからであり、自己責任論的な風潮にも対応可能だったからだろう。

ところで、自己責任論とある連帯関係を結んでいるのが無敵のセルフイメージという心理学-自己啓発分野のムードだ。自己啓発本かそれに類する心理学本にはよく「傷つかない心を手に入れる方法」とか「図太くなれる思考」のような、あたかも悪いことがあっても全く傷つかない人間になれるかのようなタイトルがつけられる。全ては自助努力の問題であり、傷つくのは弱い自分のせいであるという自己責任論的な風潮が高まると、個人はこういった「鋼のように強い」自己のイメージを追い求めることを余儀なくされる。しかし、これから問わなければならないのは私たちが追い求めてきたその「強い自己」が何をもたらしたかについてである。



「自分が強いと思っていれば傷つかない」とか「気にしないようにすれば気にならない」という精神論は今に始まったことではなく、石の上にも三年と言われるように昔から根強い。たとえば村上春樹などもこう言っている。


タフになるには、まずタフである演技をすることです。きちんと一生懸命演技をする。ふりをする。そんな演技を長くきちんと続けているうちに、じっさいにタフになれます。ほんとですよ。やってみてください。人格とはほとんど役柄のことなんです。(「村上さんのところ」)


問題は、タフである演技をするというのを、たとえば攻撃を受けたプロレスラーが痛くないふりをするのと同じように、精神に対して行ったときにどうなるかということだ。心に対して「タフなふり」をするというのは、強い自分のセルフイメージを持ち、そのセルフイメージに従って自分が傷ついていることを否認したり、動揺するできごとを意に介さないように努めることである。しかし実際のところ、心理学的にはこういった努力はたいてい目論見とは正反対の結果をもたらすことが予想される。


ついで、患者のはっきりした言明によって明らかなことは、患者の意思的な努力つまり防衛の試みである。私の理論はこの点を重視しているが、少なくとも一連の症例では、意志的な努力がその意図するところを達したと思われたのちに恐怖症や強迫観念がはじめて現れたことを、患者自身が解明している。「私には昔ほんとに嫌なことがあって、私はそれを押しのけて二度と考えまいとつとめ、やっとうまくいったが、それからというもの他のことにとりつかれ、こんどはそれからのがれられなくなった」こう語って、ある女の患者は、私がここに展開した理論の重要な点を保証してくれた。(フロイト著作集6)



心理学的なひとつの原則は、否認されたある受け容れがたい感情は、感情それ自体と隔てられた様々な症状として回帰するというものだ。つまり私たちが「タフなふり」をするために見捨てられた感情は、もはやそれと判別できない別種の苦痛や行動への影響となって発露する。抑圧された苦痛がどのような形で表現されるかは誰にも分からない。その表現は場合によっては、先に触れたような他者への攻撃という形を取ることもあるだろう。この、傷つくことを回避するために最初に試みられる反応(現実の否認)が精神にとっての致命的な悪手であるということが、私たちが往々にして自分の心との向き合い方を誤る要因のひとつなのである。

「傷つかない自分」という無敵のセルフイメージを守るために否認された心の傷は、肉体の怪我のように自然治癒することなく無意識下に滞留する。否認された傷がもたらす恐怖や苦痛、種々の症状はもはやもとの感情の原型をとどめておらず、無意識の中の独自の言語として表現される。これによって、「今まさにわたしは苦しんでいるが、何に苦しんでいるのかわからない」「今まさにわたしは理解不能なことをしているが、何故そうしているのか分からない」ということが起こる。



共感を防ぐことは可能か


既に自分の心配事や苦痛で一杯いっぱいになっている人々にとって、「他人の苦痛に構わなくてよい」という提案は魅惑的だ。いわゆる心理的ライフハックを提案してくれる人は、いつでも私たちがそうしたいと思っていることを後押ししてくれる。例えばこんなふうに。




もし私たちが言われたように「他人の苦痛を他人のものとして」扱うことができるのなら、それに越したことはない。しかし、心理学ではしばしば言われるように無意識には「主語が存在しない」という前提が立ちはだかっている。つまり、もし私たちが他者の苦痛を「これはあなたの苦痛であり私には関係ない」と唾棄したとして、その苦痛を離れるのは「私」「あなた」の違いを判別できる自我だけであり、無意識では依然として他者の苦痛が「わたしのもの」として滞留しているという事態が起こり得る。攻撃者が自分の苦痛を他者に押し付けたり、共感する人が他者の苦痛を受け取ったりするように、この苦痛が誰に属するものであるかについてはっきりと切り分けることは難しい。

そもそも、誰かが苦しんでいるのを見ていたたまれなくなったとして、それがその人の苦しみであると断定する根拠はどこにあるだろうか。その苦しみは、私がすでに抱えている苦痛をその人の中に投影したものに過ぎないかもしれない。たとえば、遠い国の子どもが飢えに苦しんでいるのはその子の問題であっても、その子に対して何もしようとしない自分への自責の念とか、その子を通して辛い過去を思い出すという苦痛は、その子に返してやることはできない。それは、相手という鏡を通して見ている自分の苦痛だからだ。

であれば、他者の苦痛を「なかったもの」として扱うもくろみは失敗し、むしろその中に含められている自分の問題が抑圧され、かえって耐えがたい苦痛として回帰してくることは十分に考えられる。これが他人の苦しみや問題について「考えないようにする」ことのリスクだ。



精神的な傷は、逆説的に「受け容れることによって手放す」という手順を要求することがある。その存在を認めることによってはじめて自分の中にある問題と対面することができるからだ。たとえばうつ病は、自分がそうであると認めることが治療の一歩目となるが、それを否認している限り、病症は自己と溶け合ったまま分離できないものであり続ける。自分が「うつ病」であると認めることによって、逆にその病気が自己にとって外部の要素となる。

最後に、「攻撃的な人は強い人ではない」という主題に戻りたい。「傷つかない人」はいないが、精神的に強い人を定義するなら、その人は傷ついたことを受け容れ、表現することのできる人である。攻撃的な人はただ、自分の外傷を否認し、誰かにぶつけることで責任転嫁しているに過ぎない。「傷つかない強い人」は、否認された傷と、誰かの犠牲の上に成り立っているのだ。(終)







このマガジン<平気で生きるということ(β)>は、メンタルが弱い人、悩みの多い人、人格の基盤がグラグラしている人に向けた、精神的な問題を理解するための継続的な試みです。


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