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「甘やかされて育った」人生は実は苦しく厳しい

親が子どもの境界を尊重せず、境界を侵犯すると、親は子どもを人間として尊重していないというメッセージを与えることになります。それは「自分には価値がない」というメッセージとして内在化されます。子どもとの境界を認めない親は、「おまえは私のニーズを満たすために存在している」「私はおまえより大切な人間だ」「個別の感情、欲望、ニーズをもつ自分自身であってはならない」といったメッセージを与えることになります。このようなメッセージは、子どもたちは他の人の役に立つために、自分自身をあきらめなければならないと暗に言っているのです。
「私は親のようにならない」、C・ブラック



「愛されて育った人は幸せになる」という前提は自立した精神に関する様々な誤解の原因となる。

たとえば、過保護は親による境界侵犯の一例であるが、過保護の親は「十分に愛された子どもは幸福になるだろう」あるいは「愛情の不足によって子どもは不幸になるだろう」という強迫観念によって子どもを自分自身の課題から隔離し、かえって親に認められ、守られ続けなければ存在できない自我を形成させる。過保護の親は、自分が「子どもの幸福」について責任を持っていると考え、子どもがどうすべきであるかについてあれこれ干渉し、制限するが、それによってまさに子どもの主体性を剥奪し続けていることに気付かない。結果として子どもは、親の言うとおりにしなければいつでも不安で、自分のニーズを自分で満たすことに喜びを感じられない、コントロールされたままの人生を送ることになる。

言うまでもなく、子どもは親の自我の延長を生きているわけではなく、他人であるために、子どもの幸福の責任を親が持つということは、自己と他者の混同であり、子どもが自分の幸福について選択する自由を奪う態度である。しかし問題は、この境界侵犯がほとんどの場合「善意」によって―――つまり親にとっても、子どもにとっても「愛情」の一貫として堂々と行われる点にある。

過保護や甘やかしを受けて育った子どもは、実際には自分の自律性を否定され、親と別個の人格として認められることさえ叶わなかったにも関わらず、表面的には「愛されて」いたために、その苦痛の原因を親子関係ではなく自己自身に求めるほかなくなる。このために、自分は「愛されて」育ったのにだめな人間になったとか、何不自由なく暮らしてきたのに不満ばかりだといったふうに自責的な考えに(あるいはそういった的はずれな指摘に)突き当たってしまう。


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