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弱者はなぜ非弱者を不快にさせるのか

ライターであり小説家の品田遊の著書「名称未設定ファイル」の中に「猫を持ち上げるな」という短編がある。猫を持ち上げるというごく一般的な行為があるきっかけで「虐待ではないのか」と問題視され、いわゆる炎上に発展していく内容なのだが、示唆的なのはこの「過剰動物愛護」的な炎上が単に猫を見たくないという「動物嫌い」の支持を受け、正反対の二者が奇妙な連帯関係を結んでしまうという描写だ。

終わってしまったことを蒸し返すようで悪いが、先日のcakes記事ホームレスを3年間取材し続けたら、意外な一面にびっくりした 記事の炎上はこの短編を思い起こさせる側面があった。件の記事は、「(救われるべき)社会弱者としてのホームレス」という同情的な視点を遮断し、非干渉的な態度での観察を試みているもので、一般的に不気味なものであることは間違いなく、また「弱者をコンテンツ化するな」という批判はまっとうだといえる。

しかし、それでもこの炎上に「乗る」ことには危険な香りを感じずにはいられない。なぜなら、記事の不快さは「弱者の存在を軽視/差別しているから」というような単純なものでは明らかになく、むしろ「弱者を弱者として扱っていないから」という部分にこそ起因しているからだ。ホームレスの生活や人間性が綿密に描写されるほど、つまり弱者ではなく「一般人」と変わりないものとして扱われるほど不快になるのは、むしろホームレスと自分を精神的な壁で分け隔てている側の人間だといえる。「弱者」という特殊なタグを貼ることによって私たちはそれを安全に取り扱うことができるのだ。

「ホームレスを丁重に扱え」という論調は、究極的には「ホームレスを見せるな」という理屈に援用可能だという危うさを孕んでいる。ホームレスを「正しく」扱うことを難しくしていけば、逆に言えばその存在を抹消することができる。公園にいるホームレスを排除する人間はなにも「不快だから追い払ってくれ」と表現するとは限らない。「あんなところでホームレスさんが雨風に晒されてかわいそう」と言うこともできるのだ。



つじつまの合わない現実


ラカンにとってリアルとは、あらゆる「現実」が抑圧しなければならないものであり、まさにこの抑圧によってこそ、現実は構成されるのだ。リアルとは、目に見える現実の裂け目や、そのつじつまの合わないところのみに垣間見ることのできる、表象不可能なXであり、トラウマ的な空洞だ。(「資本主義リアリズム」、マーク・フィッシャー)



社会現実は現実界から「不都合なもの」を抑圧することによって形成される。無限に拡大する資本主義にとってその「不都合なもの」はたとえば環境破壊であったり、犠牲となる弱者(ここではホームレス)の存在である。

言うまでもなく、資本主義は富裕層と同時に弱者を生み出すシステムであり、その社会に属する人間は大なり小なり弱者の存在を度外視して日常生活を送ることになる。一般人の「平穏な生活」が見えないところ(あるいは意図的に見えなくした部分)の犠牲のもとに成り立っているという事実は誰にとっても不快なものであり、社会弱者が嫌悪されるのは見えないようにしているその現実の「裂け目」を意識させるからである。(※)

一般人にとって社会弱者との遭遇は第一に、自分がその社会弱者に転落するかもしれないという恐怖や不安を、第二に自分の平穏な生活がその弱者の犠牲をともなうシステムのもとに成り立っているという潜在的な罪悪感を喚起するために、不快なものとならざるを得ない。そこで私たちは、慌ててこの社会弱者との関与を否認することによって不快感を軽減しようと試みる。たとえば以下のような態度はこの切り離しの試みだと考えられる。



1.弱者にはなるべくしてそうなった責任や落ち度があり、落ち度のない自分は決して弱者にはならないという自負。自己責任論。

2.弱者に対する直接的な攻撃。

3.弱者に対する善的な意識・態度の表明。



弱者への罪悪感


上に挙げた三つの例の中では、「弱者に対する善的な意識・態度の表明」は奇異に思えるかもしれない。なぜ弱者に対する「優しい」態度が不都合な現実から自分を「切り離す」ことになるのか。

「資本主義リアリズム」の中でフィッシャーは資本主義へのアイロニカルな映画「ウォーリー」を引き合いに出して次のように説明している。


しかし、にしても、この類のアイロニーは資本主義リアリズムに異議を唱えるよりも、むしろ、それを助長させるエサになる。『ウォーリー』のような映画は、ロバート・プファッラーのいう「インターパッシヴィティ[相互受動性]」の実例なのである。つまり、この映画が反・資本主義を私たちの代わりに演じてくれるので、私たちは罪悪感に悩むことなく消費し続けることを許されるというわけだ。(同上)



私たちは「既に」、リアルタイムでホームレスを生み出し続ける構造に加担しながらそれを批判しなければならないという矛盾下に置かれている。精神的に「弱者に寄り添って」いることは、そして弱者に寄り添わない態度を非難することは、弱者を生み出す構造に加担することへの罪悪感を軽減し、ますますその構造を「心地よく」利用する根拠ともなる。

そしてこれは、一種のコンテンツ化された善性やリベラル的な態度に常に付きまとっている矛盾だといえる。私たちはネット上でホームレスに対する「優しくない」描写を非難するとき、ホームレスを生み出している社会構造そのものにどれだけの打撃があるのか、実在としての彼らにどれほどの利益があるのかについては考えない。

実際のところ、ホームレスに「優しくしなかった」個人を攻撃するよりはるかに有意義なのはホームレスを生み出すような構造、社会問題、イデオロギーそのものに対する批判だろう。しかし、私たち自身がホームレスを生み出すような社会基盤に頼った生活をしている以上、それに対する批判は歯切れのないものにならざるを得ない。自分が加担しているものに対するマッチポンプ的な批判となることが避けられないからだ。そのうえ、こういったイデオロギーへの戦いは当然反対や弾圧に遭うような危険を伴う。

こういった問題を「個人的な態度」や「モラル」に還元できるような規模で扱うことは、うまく自分がある構造に加担しているという前提を回避しながら罪悪感を軽減してくれるのである。



関与否認が資本主義を支える


資本主義においてイデオロギーは一般に、私たちの行動によって提示され体現される信念を犠牲にしながら、まさしく内的な主観的態度という意味での信念を過大評価することにある。資本主義が悪だと(心の中で)信じる限り、私たちは資本主義における取引へ自由に関与し続けることができるのだ。ジジェクによれば、資本主義は一般に、この関与否認の構造によって支えられる。(同上)



これまで、一般人が格差構造への「関与否認」を続けることができたのはそれが「強欲な富裕層」と「絶対弱者」を主語にして語られてきたからだといえる。しかし、社会の貧困化とそれに追い打ちをかけるような疫病禍はかつての「普通の生活」をもはや特権的なものにしつつある。このような環境下では、資本主義や格差社会はたしかに悪かもしれないが自分は慎ましく暮らしている一般人であるという言い訳も通用せず、もはやただ生きているということが淘汰され、犠牲になっている存在への後ろめたい感覚を催すものとなり得る。

こういう経緯があって人々は、自分の現実の行動(消費、労働、社会活動…)と内的な信念(本当はこうすべきだ、こうしたい、こんなはずではない…)を分離して生活するようになる。その態度が保守的であるかリベラル的であるかといった差こそあれ、私たちは弱者・犠牲者の存在や止まることのない環境破壊といった資本主義的悪夢への関与を否認し、「自分は加担していないもの」とすることで精神的な分離を試みる。

しかし、この「分離」によってこそ資本主義は支えられている、というのが引用部の主張するところである。様々な立場が自ら関与し、支えているものへの責任を放棄することによって資本主義は成り立っている、というわけだ。



「炎上」というエモーショナルな様式の難しいところは、その主張する立場が撃ち滅ぼすべき悪と対立していても、結果的にはその悪を継続させるのに役立ってしまう場合があるということである。感情の矛先として立ち現れたものが問題の本質や根源とかけ離れているとき、問題を起こしている構造そのものから目が背けられてしまうのだ。




※追記

人が「抑圧しているもの」を見たがらないことの比喩として、精神分析家の岸田秀は今では馴染みのない表現だが「汲み取り車」を挙げている。人は隠れて糞便を排泄し、そのことを忘れて暮らしているが、汲み取り車の存在は否応なく「排泄している自分」を想起させる。このため、人が汲み取り車を見て眉をひそめるのは対象それ自体ではなく「排泄する自分」の不快さである。

ホームレスや職業差別の場合も、不快さの本質は対象そのものではなく、「ホームレスになってしまうかもしれない自分」への不安とか、「自分が快適に暮らしている社会に介在している犠牲者」への罪の意識といった内面的な部分にあると言える。

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