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「若者が投票に行かないせいで社会が悪くなる」という論理

最近、コロナウィルスにまつわるドタバタ劇があったので、ふだんは滅多にそういうことを口にしない人物からも珍しく社会に対する不平不満というか、重い吐露のようなものが見受けられた。

そして、社会に対する不平不満に対しては最近では付き物になった例の口調、つまり個人の持っている不平不満の全ての原因はその張本人にあるのだという自己責任論的な調子で、「このように世の中が腐敗しているのは君たちが選挙に行かないからだ」と巡り巡って若者が責められているのを目にした。このような光景は珍しいものではないというか、誓って言うが、僕が物心ついたときから既に言われているのだし、もう何十年も前から継続して繰り返されている光景だと思う。

そして、非常に大きな規模で繰り返し起きている問題をふつうミクロの、個人の意思の問題としては扱わない。たとえば、一人の人間がその当人の怠慢によって何らかのミスを一度きり犯した場合、これはその人の不注意が悪いということで片付けてもよいだろう。しかし同じ種類のミスが、継続して何人もの違う人たちによって、しかも何回も繰り返されたとしたら、そのミスはシステム的な不備を疑うことによって、いわばマクロの視点で捉えなければならない。このような場合に、依然として個人の責任による精神論的な改善案、たとえば「ミスをしないように頑張って気をつける」というようなものを誓わせたところで何の意味もなさないということを僕たちは経験的に知っている。



若者が政治に関心を持たないということについては、言うまでもなく若者のせいだということになっている。社会状況がどんどん悪くなっていくのに、彼らが政治に興味を持たず、娯楽に呆けているのでますます政治が腐敗する、といった具合だ。だけれど、「若者が政治に関心を持っている状態」とは一体どのようにして実現されるものだろうか?

僕の見る限り、特にネット上ではその傾向が顕著に見受けられるけれど、「政治の話をする人」はものすごく語気が強かったり、イデオロギー的に偏っている人が多い。たとえば、社会に対する不安や不満、あるいは批判的なことを述べたときに、不満があるならこの国から出て行けとか、この国は完璧で批判に値するものは何もないといわんばかりにものすごい剣幕で否定する人がいる。また一方では、もはやこの社会では問題と害悪以外の何も発生してはいないという調子で、国や社会に対する肯定的な意見や見通しは許さないという調子の人もいて、「政治の話」を媒介してただこの二者間の闘争が繰り広げられているという光景が日常的に見られる。これは何もネット上に限られたことではなくて、昔から「野球と政治と宗教の話はするな」と言われているように、僕たちの間には、意見が対立したらその時点で決定的な断絶が発生するという妙な前提がなぜだか知らないがある。異なる立場の二者間で意見を交換し合うことを対話というが、この人たちがひたすら行っているのは、相手を黙らせるためにもっと大きい声で「意見」を言うということで、対話が必要とする相手の意見を聞いてみるという態度は見受けられない。ポリコレやジェンダー論のような白熱する議論でも似たようなことが起こるが、言論が互いの間を行き交うためではなく、互いを断絶し、よりいっそう自分の正しさへの確信と納得を強化するために利用されている状況がある。

ではこのような状況、何を言ってもどちらかに極端に偏っていないという理由で一切の社会的発言とか、批判や疑問を投げかけることが抑止される状況で、一体どうやって若い人がカジュアルに社会に「関心を持ったり」「対話する」ことができるというのだろうか。少しでも間違っていたり、知らなかったり、あるいは単に見解が異なっているというだけで、血相を変えて激怒した人間が湧いてくるかもしれない状況で、どうして活発に意見を交換したり、質問したりしようと思えるだろうか。

僕の思う限りでは、投票に行くというのは社会に対する参加意識が前提になっている行為で、社会に対する参加意識には社会について気軽に対話(対立や対決ではない)できる環境があるという条件がある。社会について誰とも対話できないし、表立って意見を言ったり聞いたりすることがタブーなのに、誰もがすでに支持政党のひとつやふたつを携えて投票所に行けるというのは都合が良すぎないだろうか。人間はまるで生まれ持った個性があるようにイデオロギーを携えて生まれてくるわけではあるまい。



だから、少なくとも僕の見立てでは、若者が政治に関心を持っていないとか、社会への帰属意識がないというのは、もはや若いといえない僕たちのような層がそうなるように仕向けているのだと言うほかない。いうなれば自分たちで社会的対話から若者を締め出しておいて、その結果として参加意識のない若者が投票所に現れないことに腹を立てるというマッチポンプを働いているのだ。この矛盾した要求は 短くまとめると「政治の話をするな、投票に行け」ということになる。

この「締め出しておきながら帰属を強要する」という態度は、一見矛盾しているように思える。だからとても、同じひとりの人間がやっていることのようには思えない。しかし最近になって、色々な分野を勉強しているうちに、こういう行動がきわめてありふれているということを僕は知った。

たとえばあなたがアルバイトや社会人経験がある人なら、間違いなくこういう人を見たことがあるはずだ。上司が部下に、先輩が後輩に、何か教えられないとできるはずのない工程の手順を教えないで、あるいは出すべき指示を出さないで、わざと失敗したり、うまくやれないように誘導する。それで、案の定できなかったり、困って助けを求めると、「ほら見たことか、お前は俺がいないと何もできない」と怒りはじめたり、自慢げな顔をする。

それとかよくある話では、家庭内で(あるいは社会全体で)娘が化粧したりおしゃれしようとすると、何を色気だって、気持ち悪い、というふうに茶化しておくくせに、大人になって結婚しないでいると、こんどはいつになったら結婚するのかと迫るようになる。子供が色々な経験をするのに、全て妨害したり肩代わりしておいて、何もできない子に育つと、お前は何もできない子だから目が離せない、とこんどは心配し始める。

こういった「相手に無知・無能であることを求めながら無知・無能な相手を批判する」という矛盾したスタンスは、実は本人の中では一貫していて、要はこの人は相手を無能にしておくことによって自分を必要な存在に仕立て上げ、相手が自立して自分から離れないようにしようと試みているのだ。

いわゆるDV恋愛というのも全くこういう関係で、「お前は無力だ、お前はどうしようもない」とパートナーに繰り返し言い聞かせ、信じ込ませることで、相手が自分を必要とし、離れられなくなるように誘導している。このとき、表面的には相手が自分に依存しているように見せているが、実際には相手を必要とし、依存しているのは自分であったりする。

言ってみれば、世にあるモラハラ行為の多くは表面的には「相手は愚かであり、何もできない」という批判的な前提を取るが、根底ではむしろ相手に愚かであり続けることを求めている、という矛盾の体裁で成り立っている。そして、相手を「締め出しておき」ながら、「あなたは何もできない」と批判するとき、モラハラ行為者は「今こそ自分が必要とされている」という密かな愉悦に浸れるわけだ。「周りが何もできないから自分がやるしかない」という不満がきまって自慢の雰囲気を醸し出すのは、「できない周り」を作り出してまで演出した「必要とされている自分」にスポットが当たっているからである。

人は誰しも、「自分はこの分野に優れている、必要とされている」という意識なしに生きて行けない。そこでその分野を自分の領土のように独占して、他者を締め出し、そうでありながらその領土への帰属を要求する。これを社会や政治に当てはめれば、老人はまた、社会から必要とされなくなり、見捨てられるという不安を、若者を社会的対話から締め出し、そして帰属を要求するという態度によって軽減しようと試みることも考えられなくない。



そして自己責任論へ


さて、冒頭のミクロとマクロの話に戻ろう。「わたしが投票しないから社会が悪くなる」というのはミクロの見方だといえる。ミクロ論では社会が悪いことの責任は私に帰ってくる。しかしこの視点で投票棄権を批判するのは、ミクロ視点では自分さえよければそれでよくなるという前提を見逃している。つまり、若者に「お前が投票しないと社会が悪くなってお前が損するぞ」と言ったところで、「社会が崩壊しても僕は自立していて海外に逃げるので大丈夫です」と返されるとぐうの音も出ないのである。

しかし、この自己責任論的な帰結は元をたどれば上から下に、老人から若者に向けて押しつけられたものに他ならない。なぜなら、若者が不平等を訴えたり、生活が苦しいと吐露したとき、「それはお前が努力してこなかったからだ」とか「努力すればどんな苦境も跳ね返せる」と繰り返し自己に帰結させてきたのは上の世代なのである。「どんなに苦しくなっても自分の努力でなんとかするしかない」という自己責任論を押しつけられた若者が、苦境に際して社会が改善することを求めず、自分で努力して自分だけは助かるという選択をしたとしても何も不思議ではない。彼らは社会がどんな苦境にあろうと、己の才能と努力で切り抜け、豊かで幸福な自立した存在になるという新自由主義的な態度を常に要求されている。どんな悪いことが起こってもそれは社会やシステムのせいではなく自分のせいなのだから、社会やシステムのことは考えず、自分が厳しい生存競争を勝ち残ることに集中しなければならない。苦境を社会やシステムのせいにするのは格好が悪い、とさえ言うだろう。

こういうわけがあって、ごく若い人から世の中に対する否定的な意見を聞き出すことは難しい。彼/彼女らは高度に個人化され、全ての責任を自己に負わされ、もはやどのような問題も自分をおいて他に解決してくれる者はいないという世界を生きている。彼/彼女らの苦境は、社会への批判や不満、あるいは改善への希望ではなく、常に自分の無能さ、無力さ、主観的な苦痛などによって語られる。その苦痛は個人的で感傷的な物語として保存され、甘く希薄な連帯のもと消費される。

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