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恋愛はなぜ廃れるのか

男はどうしてこうも家事ができないのか、とか女性の社会参加や意見表明はどうしてこうも阻害を受けるのか、というテーマはいつまでたってもジェンダー論の中心にいる。なんでか分からないが私たちは、男に生まれたら男はこういうふうにするものだとか、女に生まれたら女はそういうことをしないという教育を受けて、言われるがままにそれを守って大きくなる。そしてごく自然にそういうルールを守らない人をおかしいと笑ったり、正しくするべきだと批判する。

日本では、女性が意見を表明することがとても嫌われている。女性が大きな声で話していいのはたいてい趣味とか文化の領域の話であり、社会や組織について発言すると「女賢しくて牛売り損なう」の理屈を現実化しようとするものすごい力が働いて、なんとか意見したことを後悔させようと試みる人たちが現れる。女性の発言ばかりが是非を問われ、結果的に「黙っていた女が賢くて出しゃばった女は叩かれる」という風潮が加速する。

こういうふうにして「社会(外)は男の領域」「家庭(内)は女の領域」というジェンダーロールが割り振られる。ひと昔前の家父長制的な家庭では、男は社会で大きな顔をする一方で、家庭では自分のことすらままならない無能に成り下がり、居場所もなくふんぞり返っている。しかし家の中では存在感がないので妻と子に内心ばかにされ、定期的に「誰のお陰でメシが食えている」と唱えることで透明になりかけている地位をカバーしなければならない。



こういった「男は」「女は」という根拠のない振り分けは、役割意識だけでなく趣味や好奇心の分野にも及ぶ。たとえば男の子は恐竜やロボットに興味を持つよう、女の子は人形やままごとに興味を持つように自然に"誘導"される。男の子は「男の子向け」の本やアニメを見て、女の子もそのようにする。だが、何故そのようにしなければならないのかについては私たちの誰も知らない。リベラルやフェミニズムはいかに女性が「男性の領域」から、そして男性が「女性の領域」から疎外されているかをつまびらかにしたが、依然として「なぜそうするのか」という目的は私たちには不明である。

「ものぐさ精神分析(岸田秀、連載時1975年)」で発表された性的唯幻論はこのような、一種のマッチポンプで再生産される「男らしさ」「女らしさ」について重要な手がかりを与えてくれる。

性的唯幻論について引用する前に少し前提に触れておくと、筆者が唯幻論と名付けたものはフロイトの精神分析論に準拠しており、人間は本能が壊れているために幻想を共有することでなんとか代用しているという考え方の体系である。性的唯幻論は、人間の性的本能は動物のようにそのまま生殖に向かうものではなく壊れているため、様々な幻想で補って「正常な」生殖まで導いていると要約できる。つまり「男らしさ」「女らしさ」という幻想は、放っておけば滅んでしまう人間たちをなんとか生殖に向かわせようとするムラの長的な視点での必死の努力なのである。以上の前提をふまえて一部を引用してみたい。


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