自己愛とは何か?犠牲と搾取が両立する関係性

文字通りそうであれば分かりやすかったものの、一般に自己愛と呼ばれるものは、自己に対して向いている愛情ではない。自己愛は、自己を出発してそのまま自己に向かうものではなく、いったん他者を経由し、他者の欲望を満たす「対象としての」自己を愛するものである。

したがって、「自己愛が強い」という表現は、自信があるとか、自己肯定感があるとかいったものの示す意味とは区別される。自己愛が強いとは、他者からの承認に対する渇望が激しいということであり、その傾向はむしろ精神的な不安定を説明づけるものだと言える。

やや遠回りになるが、精神分析での「自己愛」を以下のような関係を原点に捉えてみたい。



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はじめ、子どもは母ー子の二者で閉じられた想像的な関係の世界に属している。そこで子どもは、母の保護下に置かれて満たされている。

しかし、母は現実的に、常に子どもの前に付きっきりでいてくれるわけではない。このことは、子どもは母によって満たされるが、母は子どもによっては満たされないということを意味している。子どもは、母の不在に母が欲望(欠如)するものxを想像し、母の不在に意味を与える(母はxを欲望している)。

母ー子の関係は、この想像的なxの介在によって三角形を形成する。このとき子どもは、母が欲望しているx(ファルスと呼ばれるもの)に自らを同一化させることで、母の欲望の対象として自己を差し出す。

このとき、差し出された自己を内包する母親は欠如(欲望するもの)を補われ、「完全な」「絶対的な」存在としての位置を占める。子どもは、自ら作り出したこの「絶対的な」母親像の前に、その欲望を満たすだけの存在として無機化され、「丸呑み」にされる危険に晒される。この母親はちょうど、ユングの言う「グレートマザー」のようなものである。

父性と呼ばれるものに期待されるのは、この二者の間で欲望の循環が完結するような想像的関係に立ち入り、母ー子の直接の結びつきを切断するような役割だと言える。


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