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「ほしい」と言う能力

わたしが何かになりたいと願っているとき、何かを手に入れたいと願っているとき、誰かに愛されたいと願っているとき、重要な分かれ道はわたしがそれを「ほしい」と率直に表現するか、それともそのことを認めず、屈折した表現をするかということである。

何かを「ほしい」と言う能力のある人は、全てと言わないまでも、自然と人の助けを借りて自分の願望を達成することができるが、そうでない人―――たとえばこれまでに説明してきた「助けを借りることに負担感覚がある人」や、「自然な欲動の表現を禁止されて育った人」―――たちは、自分がそれを我慢するのはよいことであるとして抑圧したり、それはどうせ価値のないものであると言い訳をして率直に表現できず、かえって不満を蓄積することになる。

他者に対して求めることに対して私たちは、何かをしてほしいのであれ、やめてほしいのであれ、まずそれを率直に伝えるという責任を持っている。結果として私たちの要望が聞き届けられるのであれ、唾棄されるのであれ、まずそれを表現しなければならないのは、私たちは他の誰よりもまず自己の保護者としての責任を負っているからである。



私たちが自己の保護者としての責任を負っているということは、ちょうど子どもが何かを欲しいとねだって、それを親が聞き届ける時の関係に例えることができる。

子どもが何かを欲しがっているとき、親は現実的なレベルでその何かを与えられるか、与えられないかという事情よりも先に、まず子どもの持っているその願望そのものを聞き届けてやらなければならない。親がもし、それを与えてやりたいが、そうすることができないという事情を説明して、子どもの願望そのものを受け容れてやることができれば、子どもの願望は半ば聞き入れられたことになる。一方で、親が「与えられないものを欲しがってはいけない」とか「そういうふうに物を欲しがる子に育てた憶えはない」というふうに、子どもの願望そのものを否定したとき、子どもはいっそう苦しみ、罪悪感を覚え、欲望の衝動的な側面と禁止感情に引き裂かれることになる。

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