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"ありのままの私"幻想

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△欲望の果実は地平まで続いている。1つを得ればまた1つの繰り返しだ。



資本主義は驚くべき速度で数千年にわたって培われた宗教・哲学・思想といった教義的な観念を解体した。資本主義はあらゆる欲望を抑圧するもの―――たとえば暴飲暴食に耽るなかれ、汝姦淫するなかれ、といった禁欲的な啓蒙―――を敵とし、そして自由や希望を志す者たちの味方として共に戦い、やがては人々にあらゆる欲望に対する自由をもたらすことになった。資本主義が人に欲望を許すのは、人が欲望に対して金銭を惜しみなく差し出すという前提が必要だからだ。自由や希望を志す者たちにとって、啓蒙こそが最後の枷であり、希望に関する最後の戦いとは啓蒙そのものからの逃亡に他ならなかった。

しかし、自由がひとつ人間に対して詐欺を働いたとすれば―――啓蒙や抑圧の枷を外したとき、人は自分の中に内在するそれぞれの「望み」に基づいて振る舞うことができる「予定」だったのに対し、実際にはそうならなかったということだ。蓋を開けてみれば、人間に内在する望みなど何もなかったのだから。



欲望はその時々では人を衝き動かす。確かにそれは、宗教観念や道徳のような長期的な指針よりも「短期的には」強い動機となって人を動かすエンジンになる。ところがこのエンジンが思ったよりもはるかに脆く、想定外の速度で機能不全を起こしたことによって、資本主義社会は様々なトラブルに巻き込まれることになった。

第一に、欲望という動物的なロジックに社会を委ねることで、人々の通念が善意や利他といった社会的な要素よりも、むしろ淘汰という原始的なプロセスに回帰し、自己責任論という非社会的な思想が蔓延ることになった。

欲望の世界ではたとえばアルファオスがメスを独占したり、ある側が領土や富を独占してある側が飢え、彷徨うことになる。こういった状況を防ぐためのセーフティネット、たとえば結婚や福祉といったシステムが破綻することは長期的には避けられない。もっと言えば、個人のエゴにとって子供という果てしない手間と金銭負担を発生させること自体が無益であり、少子化も避けられないだろう。

原始的な淘汰の法則は当人が若く、強い者であるうちは問題にならない。しかし、人は成人すると日一日と老い、皮膚のうるおいは失われ、皺が刻み込まれてゆくことになる。欲望を満たすことが唯一の指針として存在する世界で老いてゆくことは恐らく耐えられないものになるだろう。ただ若くないというだけで軽視され、愛情の輪からはじき出され、孤独のうちに死を望むようになる。欲望という幸福単位しか持たない人間にとって、欲望が満たされないことは目的のない拷問に過ぎない。そして、若く恵まれているうちに、老いたものや弱者を足蹴にした罪を、悲劇的な終生を送ることで償わされるわけだ。

欲望を満たすことが人間の目的なら、老いて欲望が衰え、さらにそれを満たすことも難しくなるのは純粋に生きる目的が日々不可逆的にすり減っていることを意味する。そして最終的に人は「死」といういっさいの欲望が成就しない到達点、完璧な敗北へ向かうことになる。つまり欲望の社会では誰もが、決定的な抗えない敗北に向かって直進しているに過ぎないわけだ。


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