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憎悪は自分を苦しめますねって話

現代は個性の時代です。どこもかしこも「ありのままの自分を受け入れよう」というメッセージで溢れかえっています。言われてそれができれば苦労はないのだが、と私たちは思います。実際には社会に受け入れられるのは「生産性のある」人間だけではないか、と。

「頑張らなくていいよ」と歌手が勝手に許してくれます。そうしたいのは山々だが、そうさせてくれないのは社会じゃないか、と私たちは思います。そう言うのは簡単かもしれないが、頑張らなかった責任を取らされるのは結局自分ではないか、と。そうです、誰になんと言われて行動を取ったとしても、最終的に責任を取るのは自分です。

「そうはいっても仕方ないのだから」という事情で、私たちは自分の願望ないし主体性を捻じ曲げ、しまいには他者の要請するままに自己を最適化してしまいます。何をそんなに頑張っているのか、と問われた私は「頑張るしかないからだ」と答えます。そうしたいと自分で感じたからではありません。ある人はこのようにして「くそまじめな」人間になってゆきます。「くそまじめな」人間は、自分のしていることは自分の考えや意志に基づいたものではないと考えます。そうせざるを得なかった、自分の選択の余地はなかった、と考えることで―――言い換えれば、自分の主体と自由意志を無力化することでその自由に伴っている責任を回避するのです。



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△自己否定する人



ところで、ここに劣等感にまみれ、いつでも自虐と自己否定を繰り返している人がいるとします。この人を慰めるにはどういう言い方をしたらよいでしょうか?

自己否定や自虐というものは、ほとんどの場合は他者からの影響によって始まりますが、最終的には自分で自分を攻撃するという形式に落ち着いたものです。この人は、苦しんでいるのは自分なので、ある意味では被害者ではありますが、同時に自己に対する加害者でもあります。だからといって、慰めようとする人間が「あなたは自分に対する加害を繰り返している犯罪者なので、まずはその加害をやめてください」という言い方をしたら、二度と口をきいてもらえなくなりますね。ただでさえ苦しんでいる人に、「あなたは加害者だ」とか言っても、話がややこしくなるだけでしょう。

このように、「自分はろくな人間じゃない」とか「価値のない人間だ」というような激しい自己否定は、必然的に「お前は価値がない」と攻撃する自己と、「そうだ、自分には価値がないんだ」と被害者化した自己の2つを必要とします。自己否定的な人は、他者から向けられた否定的な言葉を用い、それで繰り返し自己を攻撃します―――その人がいなくなっても。一方、他者からの否定を無視したり、はいそうですかとろくに取り合わない人もいます。

私は価値のない人間である、なぜなら―――こういった考えは、自己蔑視的なものである以上、必ず他者に対する蔑視としても成り立ちます。たとえば私が「おれは貧乏だから生きる価値がない」と自虐するとき、関係ないほかの貧乏な人も「貧乏人は生きる価値なし」という価値観のとばっちりを受けます。しかし、劣等感に苛まれている私は自分は一方的な被害者であると考え、自己に対する加害的な側面を自覚できません。このとき、私のことを哀れむべき被害者であるのか罰するべき加害者であるのかと定義することはあまり意味を成しません―――蔑視というものは、ただの価値観であり、それが自己から自己へ向かうのか、他者へ向かうのか、あるいは他者から自己へ向かっているものが自己から他者へ向かうのか、まるで見当がつかないものだからです。


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