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液状化する恋愛―婚活女性が求められる終わりなき反省

グローバル資本主義世界では労働スタイルが(雇う側にとって)自由化・流動化し、フリーランスやパート・アルバイト、非正規雇用者が増加する。インターネットや高速の移動手段は個人の制約を緩和し、事実上の”世界”に対して開くいっぽうで、自由と平等の原則にしたがってあらゆる選択とその責任が個人に委ねられる。

この不安原則のシステムでは収入が低く、未来の見通しが立たない若者が溢れることになるが、特にこの流れに組み込まれることになった2010年代以降の韓国の若者は「普通の人生」にあるべきいくつかの条件を諦めざるを得なくなり、彼らは三放世代、五放世代、七放世代…などと呼ばれる。

これらの説明するところによれば、三放世代では若者たちはまず「恋愛」「結婚」「出産」の三要素を諦めることになる。五放世代では続いて「就職」「マイホーム」が加わり、七放世代では「夢」「人間関係」を諦め、これらをひっくるめてN放世代などと呼ばれる。ただただ経済的制約によって最終的には「夢」「人間関係」のような、人として最低限の権利を失わざるを得なくなるというこの僧的な禁欲傾向は、欧米でのいわゆるミグタウ(MGTOW、我が道をゆく男性たち)、日本でいう”さとり世代”と共通している。"犀の角のようにただ独り歩め"と釈迦が示した道を若者は、歩まざるを得なくなった。




何割かの人間は毎日セックスする。何割かの人間は人生で五、六度セックスする。そして一度もセックスしない人間がいる。何割かの人間は何十人もの女性とセックスする。何割かの人間は誰ともセックスしない。これがいわゆる「市場の法則」である。
(「闘争領域の拡大」M・ウエルベック)


「自由」や「平等」が約束された環境では市場原理が働くことになる。そして自由は、その本質的矛盾によって、つまり権利上の自由を全体にもたらしたとき、事実上の自由は個人から剥奪される必然によって、むしろその自由を行使できない個人を溢れさせる―――権利的に個人は「自由」だが、むしろその自由を保証しているシステムによって事実上の自由が制約されている。この状況はウエルベックが「闘争領域の拡大」で明示したものを厳密に再現しているように思える。未来が失われ、結婚は不可能になり、性そのものへのアクセスを拒まれた敗者としての男性は幻想的な性消費に閉じこもることになる。いっぽうで、結婚可能な経済力を持った男性はTinderのようなマッチングアプリを通じて日常的に複数の異性と交遊することができるが、かえってそれは結婚する必要がないことを同時に意味する。経済格差は男性にとっての結婚を、しないのではなくできないものと、できるからしなくていいものに二極化していく。

性に対して市場原理が持ち込まれることは、結婚が勝者に与えられるもの、勝者だけが選び取れるものになることを意味し、極度に個人化された社会ではその全ての責任(たとえ敗北がはじめから定められたものであっても)を個人が負うことになる。これまで説明したように、個人に対して開かれている可能性は、それを達成できなかったときには"責任"として返ってくる。

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