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無思想とは何か? イデオロギーを忌避するイデオロギー

以前、「無思想はなぜヤバいのか 」という記事の中で、「本当に無思想などという状態はあり得ず」、そして「自分がどのような思想を持っているかは、そもそも様々な他の思想を知って、それらと相対化しなければ分からない」ということを書きました。

一方で日本では、「友達と政治と宗教と野球の話はしてはいけない」などと言われるように、自分の思想を公の場や親しい人に示してはならないというタブーがあり、自分の主義主張や特定の関心事に対する立場を表明した人への風当りが強い独特の磁場が働いています。

そこにあるのは、主義主張それ自体が「公序良俗に反するもの」「攻撃的で悪意に満ちたもの」だとかいった具体的批判ではなく、「主義主張(思想)が存在すること」自体への反感です。

この文化における「対話の難しさ」、そして「思想を表明した人に対する冷笑的なムード」はいったいどこから来ているのでしょうか。今回はこのことを少し掘ってみたいと思います。


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△イデオロギーは行動や発言の原因となる考え方



過激化する自己反省


さて、日本でこのような「イデオロギー全般」に対する忌避を考えるにあたってざっくりと、'60~70年代における学生運動の激化と内ゲバの心的外傷を振り返るべきかもしれません。これらの運動は革命として挫折したのはもちろん、内部抗争によって相当数の襲撃・殺人事件(リンチ事件を含む)にまで発展するという惨憺たる結果に終わりました。

恐らくここに存在していたのは「自分のイデオロギー的な立ち位置を知られるということが、すなわち敵対する勢力の暴力に巻き込まれる可能性を意味する」というリスクでしょう。この当時のムードを知らない私たちが、無思想やノンポリというスタンスを非難するのがアンフェアにならざるを得ないのはこの限りにおいてです。

「嗤う日本の『ナショナリズム』」では、赤軍派の「総括」にみられるような極端に反省的・自己否定的な傾向について、その反省が「外部に規範を持たない無限の自己反省」という構造を持っていたことに触れます。


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