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「花はきれい」という感情について


以前、特に深い意味はなくこのようなことを書いたのだが、禅話にこのような話があった。


陸亘(りっこう)大夫、南泉と語話する次(とき)、陸云く、「肇(じょう
)法師道いわく『天地と我れと同根、万物と我れと一体』と。也また甚だ奇怪なり」。南泉、庭前の花を指して、大夫を召して云く、「時の人、此の一株の花を見ること夢の如くに相似たり」(「碧眼録」四十則)


南泉和尚に師事していた陸亘という人が、肇法師の「天地と我と同根、万物我と一体」という一句をさして「何を言っているのかさっぱりだ」と問う。すると、南泉は庭先の花の前までかれを連れ出して、「ちかごろの人はこの一株の花を見るにも、夢を見るようにしか見ない」という。

私たちは、食べ物が美味しいだとか、花がきれいだとか、動物がかわいいだとか、そういった感覚を現実から直接に経験しているつもりであるが、実はその経験は喪失されてしまうことがある。なぜなら私たちは、感性をもって直接に現実に触れているのではなく、その間に観念というものを媒介しているからである。

ここに花がある。そしてその花を私は「花」だといって、ある既知の観念に当てはめて省略する。そうするとその花の直接の経験は失われ、「花が現前している」という事実は言葉の中で死んでしまう。西田幾多郎はこの直接の経験を「純粋経験」と呼んだが、それはほとんどの場合で「花」との接触が言葉や思想によって損なわれているためである。

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