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鬱陶しく切実に必要な他者

人間関係がかくも難しいのは、そもそも人間はたがいに殴り合うために創られたのであって、「関係」などを築くようには出来ていないからである。(「告白と呪詛」、シオラン)



「最近ゲームするのが苦痛になった」と知人が言う。聞くと、現実社会の厳しい闘争関係に辟易し、仮想の世界に逃避しようとゲームに手を出しても、結局のところ操作や判断のセンス、あるいはその技術に対する努力、そして努力に費やすことのできる時間や、投資するための金銭的余裕…そういった、現実社会と何ら変わりのない闘争に感じられて疲弊してしまうのだという。マインクラフト革命ではこれに関連して、ゲームという一種の無駄な娯楽が激しい闘争の舞台に変化していく過渡にあり、最終的にはゲームを”楽しむこと”にすら一種の資質が要求されることになるということを説明した。

このたかだか10年で起きたネット環境の急激な普及は、ロールプレイング・ゲームのような一人で黙々と遊ぶジャンルの既存のゲームに対しても他者との関わりを否応なくもたらすようになったが、他者との関わりは結局冒頭のシオランの言葉に行き着くことになる。殴り合いだ。



オンラインって、世界中の人が直接的につながりますよね。それで、匿名なのをいいことに、他人を心ない言葉で傷つけても何とも思わない人たちがいる。ゲームにしても、ネットにつながって何をするのかというと、銃で撃ち合ったりしているわけです。テクノロジーの進化によって世界中がリアルタイムでつながっているのに、何でそんなことばっかりしてんの……というのもあって。ネットに疲弊している人って、けっこういるじゃないですか。(小島秀夫のインタビューより)



そういった意味では、「メタルギア」シリーズの監督、小島秀夫が上記のインタビューで語った「私たちはせっかく他者と関わる術を得たのに銃で撃ち合うことしかしない」という指摘はゲームを通じて我々が他者との関わりに感じる限界点を明確に意識させる。ゲームの中に対戦や通信要素を組み込むことは他者との関わりそのものをデザインすることに他ならず、そしてこの他者を「敵」や「競争相手」として登場させることしかできないという点には、ゲームだけではなく現実世界での人間と他者の関わりの限界が横たわっている。

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