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私はなぜ生きていてよいのか?

本題に入る前に、ひとつはっきりさせておかなければならないことがある。それはどんな人にとっても、自分がこの世界で生きていけるかどうかよりも、自分がこの世界を生きていく資格があると自覚できるかどうかのほうが大事で、他の事情のために後回しにできない問題だということだ。なぜなら、自分に生きている資格がないと感じる人は、やがて自分で自分が生きていけないように仕向けてしまうからである。

私たちが「愛されて育った」と形容することができるのは、「私はどのような状況にあっても生きていてよい/そして存在することを祝福されている」と感じながら大人になり、その感覚を身につけた人である。逆に、「愛されて育てられなかった」、あるいは「虐待されて育った」と形容するのは、「私は何かの条件を満たさなければ生きている資格がない/そして私が存在することはいつも誰かの負担である」と感じながら大人になり、その感覚を身につけた人である。

この二者の生命は、はた目には同じような生活であっても、全く違うふた通りの生き方をしている。前者は、「私は生きていてよいのである」という感覚を自分で自分に対して与え、他人を自然に愛することができる。後者は、「私は生きていてよいのである」という証明を常に他人に対して求め、自己犠牲的に振る舞ったり、見返りを求めて傲慢になったりして、他人や自分自身を愛することができない。そしてこの違いは、最初に自分を愛した人、つまり両親が自分をどのように愛したかによって生じる。



前提1:親が子を愛する方法は、今後一生その子が他人を愛する方法の原型になる。そしてその愛し方は自分自身にも当てはめられる。



物心がつく前の子どもにとって、両親が自分を愛する方法とは愛するということの唯一の模範であり、その模範はやがて他者や自分自身を愛する方法としてほとんど無反省にコピーされる。

精神的にも肉体的にも自立していない子どもにとって、親の存在は絶対的であり、「自分が愛されているかどうか」はそのまま自分の存在意義になる。子どもが親の愛情をその後一生、唯一の愛情のあり方として妄信することになるのは、この「全面的に他者に依存している立場」で経験した関わりあいの原則が、無意識の中で「そうするしかない唯一の方法」と決定づけられていることに由来する。したがって、子ども時代に植え付けられた「親に愛される方法」が無意識の中で「わたしが存在する方法」に置き換えられて残ってしまうということが考えられる。

この種の精神的呪縛の強力さについて、よく言われる子ゾウと鎖の例え話が適切かもしれない。あるゾウは力のない子どものうちから鎖をかけられて育てられる。成長して大人になり、その鎖を引きちぎるほどの力が身についてしまっても、ゾウは鎖から逃れようとしない。「鎖から逃れられなかった非力な時代」の固定観念から、それを「絶対に引きちぎれないもの」と思い込んでしまっているからだ。

これをふまえて、人が他人や自分自身を自然に愛することができるようになる愛情の与え方と、そうでない愛情、いわゆる「条件つきの愛情」の違いについて考えてみよう。



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△自立を促す愛情のモデル


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