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マインクラフト革命

テレビのお笑い番組の、録音された笑い声を思い出してみよう。おかしな場面に対する笑いの反応は、あらかじめサウンドトラックに録音されている。たとえ一日の辛い労働の後で疲れ果てた私が、笑わずにただ画面をじっと観ていたとしても、番組が終わったときには、サウンドトラックが私の代わりに笑ってくれたおかげで、私はずいぶん疲れがとれたような気になる。(「ラカンはこう読め!」、 スラヴォイ・ジジェク)



ゲームと他の娯楽の違いは何だろうか。それはインタラクティビティ、他のメディアのように決定されたシナリオや運命づけられたアクシデントを一方通行的に受け取るのでなくこちらからも干渉可能であるという双方向性にある。

しかし、従来のゲーム体験がもたらす「自由度」についてあえて懐疑的に見れば、干渉することができるといっても結局はそこで起こるシナリオや行動範囲は確定されており、プレイヤーにできるのはそれを「うまくやる」こと、換言すれば命令を忠実に実行することで定められた運命をトレースしているに過ぎないとも考えられる。つまり、干渉しているのではなく干渉している気分にさせられているのである。

これに対してゲーム制作者たちは、運命づけられたシナリオをいくつかに分岐させて、プレイヤーの選択によって異なる結末を辿るようにしたり、オープンワールドと呼ばれる広大な世界を提示し、シナリオ自体の重要性を雲隠れさせることでプレイヤーの”自由”を演出する工夫を重ねてきた。なぜなら、ゲームとは本質的に双方向性のメディアであり、自由に向かって拡大していくことはゲームが持っている一種の習性のひとつだからだ。

しかし、選択肢が膨大に増えたところでプレイヤーがいずれかのシナリオを辿ることはあらかじめ想定されており、選んでいると同時に選ばされている事実に変わりはない。問題は運命が誰かによって既に描かれていて、それを自分が作っているわけではないという点に行き着くのである。



マインクラフト(2010)の提案は鮮やかだった。それまで結局のところ、完成され固定された状態でプレイヤーに渡されていた世界の地形そのものを干渉可能にしたのである。プレイヤーは斧やスコップのようなちょっとしたツールでさえ「作る」ことによってこの世界に誕生させなければならない。それはあらかじめ完成された状態で落ちて転がっているのではなく、自分の力で獲得しなければならないのだ。これによってプレイヤーは文字通りの自由の中に放り出され、リニアな物語を再現するのではなく運命を自分で切り開かなければならなくなった。

しかし反面、自由のもとに責任がついて回るという法則にしたがって、ひとつの問題が明らかになった―――つまり、ゲーム体験を自分で創り出さなければならないということは、ゲームがつまらないのはゲームではなく自分の責任になるのである。

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