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精神分析は人の心を切り刻むか―まえがき

精神的な問題や苦しみと向き合うにあたって、心理学や精神分析、あるいは精神医学とどう折り合いをつけるかのさじ加減は難しい。

たとえば、精神分析は「人の心を冷たい機械のように扱って、ばらばらに切り刻む」というイメージを持っている人は少なくないと思う。誰だって、自分の心を大切に思っていて、それを何かの電気信号とか化学反応の結果だというふうには考えたくはない。

それから、実際に知人や自分自身がカウンセリングや投薬治療を受けて、ただ話を聞くだけのカウンセラー、薬を出すだけの医者に不信感を抱いたり、思わしい成果が出ずに、ただのビジネスなのではないかと考える場合もあるだろう。実際、体のほうの医者にヤブ医者や名医がいるように、もっと曖昧なものを扱うカウンセラーや精神医がみな「当たり」だとは限らない。



ビジネス的な心理学について


私たちにとって、身近なところで見かける心理学というと、書店や電車広告で見かける「億万長者になれる考え方」や「10分でうつが改善する方法」、あるいは動画サイトで心理学者を名乗る人が教えてくれる「1日3分で対人関係が劇的に改善する習慣」のような、辛い人生がいきなりひっくり返って好転する魔法のような謳い文句が想起される。一冊の本や10分の動画で人格が激変したり、あるいは大金持ちになったり幸せになったりするのであればそれに越したことはないので、こういうものを読んだり見たりしたことのない人はあまりいないかもしれないが、それでも実際にそのノウハウが結果に繋がることは稀である。そして、そういった経験から心理学や精神分析に対して胡散臭いイメージを持ってしまった人もいるかもしれない。



精神分析するというと、昔の剣術の免許皆伝の達人でもなければ身につけていないような何か特別な難しい専門的、神秘的技術を用いて縺れた無意識的心理を謎解きのように回りくどく解明するかのように思っている人、あるいは、精神分析の技術に熟達すれば、黙って座ればピタリと当たる占い師か読心術者のように、人の心を見通すことができると思っている人がいるらしいが、魔法使いじゃあるまいし、そのようなことができるわけはない。(中略)精神分析とか深層心理学とか精神医学とかを用いて、恋人を獲得する方法とか部下を統率する方法とか顧客に商品を買わせる方法とかを教えてくれる者も後を絶たないが、そして、そういう者が書いた本はわりと売れるらしいが、精神分析や深層心理学や精神医学がそのようなことに役立つわけもない。
「唯幻論物語」、岸田秀



要するに、動画を見る人、本を買う人はどうせならなるべく劇的な効果をうたっているものを選ぼうとするので、このようなビジネス化された文脈の心理学ではその効果が青天井で高くなり、魔法のようなものになってしまったと言える。心理学や精神分析に精通していない私たちが、それをなんだかよくわからない複雑怪奇で神秘的な数式と思い込んでいるのにつけ込んで、これらの専門家を名乗る人の一部は、実際にはありえないほど短い期間で精神的な問題を解決したり、あるいは劇的な幸運をもたらすもののように謳ってこれらを宣伝する。そして私たちは、そのありえない期待を裏切られて、心理学そのものにいかがわしいイメージを持ってしまう。

引用した岸田氏の文章では、精神分析は「神秘的な技術ではない」し、「魔法のような効果を持つものではない」と強調している。精神分析はむしろ、背中に貼られた紙が自分に見えないように、「傍から見れば簡単なのに本人には見えなくなっている」構造に気付かせる性質のものに例えられる。



それでも、これから書く文章で抑圧や無意識を中心として精神分析の用語や視点を拝借する理由として、精神分析の「冷たい」視点が有用になる場面について考えたい。

たとえば、「子供をしつけるためには殴ることも必要」で、「殴ることも愛情の一種だ」と考えている親がいるとしよう。言うまでもなく、これは典型的な虐待だ。

子供にとって、親は自分を愛し、世話してくれる絶対的な存在であるのに、その親が自分を殴ったり、拒絶したりするということは、自我を根底から揺るがす事態になる。そこでこの子供は、「自分を殴ってくる親・拒絶してくる親」を無意識の底に沈め、「自分を愛してくれる親」という理想化された像だけを意識内にとどめ、安定をはかろうとする。これにしたがって、殴ったことは愛情の裏返しであるという後付けの理屈が加えられ、また自分が親になれば同じようなことを繰り返す。これが典型的な「抑圧」の形であり、この抑圧がのちのさまざまな神経症状・精神異常の根源となる。

無力で自立していない子供にとって、親の愛情こそが自己の存在意義そのものであり、その存在意義を疑うということは不可能に等しい。そして、この「親の愛情を信じようとする気持ち」が抑圧を生み出す。

無意識の開拓者であるフロイトは、種々の神経症患者を診察する過程で、ほとんどの神経症が虐待による心的外傷(トラウマ)と関わっているという気付きに至る。しかし、「親が無意識に、知らないうちに子どもを虐待している」こと、そしてそれが日常茶飯事であるということを、大人たちがどれほど認めたがらないかについては、当時も今も相変わらずであると考えてよいだろう。なぜなら「家族愛は尊く」「どんな親もその子を愛していて」「仲違いしてもいつかは理解し合えるものだ」という家族に対するドラマティックな認識は時代を問わず普遍的に存在するものだからだ。(たとえば、親にどんなひどい育てられ方をしたか告白する人がいれば、それを見た無関係の人は「それでも愛情はあったはずだ」と必ず口出ししたがるだろう。)

しかし、ここで「抑圧」の基本に立ち返ると、「愛情が存在していたと信じたがる気持ち」は、虐待を受けている子供の中に存在する「親を理想化しようとする心情」と全く同根のものなのである。「愛情を信じたい」という有機的な、ドラマティックな感覚こそが、虐待の真実を歪め、私を精神的苦痛の檻に閉じ込めてしまう。

だからこそ、抑圧を扱うときには精神分析の持っている「冷たい視点」、つまり「親の愛」や「家族愛」が常に本物であるとは限らない、という科学的な視点が役に立ってくれる。自己や、愛情に対する一種のドラマティックな願望をいったん取り外すことで、その中にある矛盾や、プログラムのバグのようなものを点検することができる。だから、精神分析は冷淡で機械的なものであってもよいのではなく、むしろ人間の精神に対して冷淡で機械的であるという役割を担っているのだ。



精神分析はしばしば、「幸せになるためにはどうしたらよいか」という問いに答えるようなものとして捉えられている。しかし、そのような問いをする人の中では幸せが「お金持ちになる」「結婚する」「夢をかなえる」といったふうに固定されていることが多い。このような人は、たとえばお金ならいくら稼いでも足りなくなるし、恋人ならどれだけ取り換えても幸せになれない、という事態に陥りがちになる。

しかしここでは、精神分析は固定された「幸せ」を実現するために利用されるものではなく、むしろ「なぜ私はそれを幸せだと思っているのか」と考えるときにもっと役に立ってくれるものだと考える。「これがなければ幸せになれない」という呪縛的な強迫観念から離れ、それがなくても生きていけるようになることは、時にはその何かを手に入れることよりも先決だ。

このため、これから書いてゆくことになる「平気で生きるということ(β)」では、心理学や精神分析をベースにするのではなくあくまで「借りる」程度に参照する。そのために、まずは抑圧と無意識について少しだけ前提を踏まえておきたい。

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