存在不安と死の不安

人が死を希うのは、漠然たる不安感に包まれたときだけである。明確な不安に襲われたとき、人は死から逃げる。(シオラン)


人間は言語の動物であり、言語の動物としてひとつの欠陥を抱えている。それは、生のすべての局面に言語が欠いている「意味」を必要とすることであり、意味づけなしには生きてゆけないということである。人間は、苦痛にも増して無意味に耐えられず、生に対する意味づけを失うことはほとんど死に匹敵する、あるいはそれを凌駕する危機ということができる。

生に対する意味づけの欠如ないし喪失は、自己存在に対する漠然とした不安として精神にとりつく。この不安は、人間がもともと「存在」しており、その「存在」への確信が揺らいで起こるのではなく、反対に人間の存在が「元来不確かな」ものであることに由来している。なぜなら、人間の「存在」ははじめから証明不可能な、論理一貫した土台を欠いたものであり、存在に対する懐疑は確信よりも先立つ前提だからである。

したがって、言語的な動物としての人間の「存在」の基本は不安、欠如、あるいは無意味であり、その欠如を穴埋めし、意味づけするのは二次的な要因、つまりそのひとの外部にあるものとなる。



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△人間が初めから持っている存在への不安(-x)は現実に投影されて実態を得る



本題に入る前に、人間が自己の存在証明を試みるときの基本的な構造を思い出してみよう。人間が自己存在に不安を抱き、その証明を試みるときには必ずひとつの矛盾を出発することになる。それは、人間が世界や自己の存在を言語的に証明することは未来永劫不可能であり(なぜならそれは記号=シニフィエの領域にはない)、存在の確かさと存在の証明不可能性を比較すればかならず後者のほうが実体的な確度を持っているということである。人間の存在の確かさは、一種の自明性に頼らざるを得ず、それは言語的な証明が必要とする懐疑的な姿勢に耐えない。

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