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交換可能なわたし

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最も原始的な関係性、たとえば家族を考えてみよう。夫婦の一方がもう片方に愛情を提供するとき、愛情に相応の代価を請求しないのは何故だろうか?あるいは、子供が無限の面倒事を起こすのに付き合ったり、立派な大人になるまで教育したことに対してサービス料金を請求しないのは?

明らかに家族間には、「他者に対して自己の利益を最大化する」という自由主義経済的な関係が成立していない、つまり家族とは他者であって他者ではないもの、利益を共有する関係にあると言える。テンニースの定義によれば、このような<本質的な繋がり>に基づいて成り立っている共同体をゲマインシャフトという。

他方、現代もっと通例的に見られるのがある目的や利益のために紐づけられている社会体、ゲゼルシャフトにあたる。ゲゼルシャフト的な関係では、個人は他者に対して自己の利益を最大化する権利を有すると同時に、他者も自己に対して自分自身の利益を最大化する権利を有する。このとき、個人間で交換される感情やサービス、物品のようなものの価値は厳密に精査され、その価値に応じた代価が支払われる。換言すれば、ゲゼルシャフトの中では支払う対価がないときや、メリットとデメリットを比較して合理的でないと考えられるとき、いかなる関係も中止される。



資本主義が社会に対して継続的に、そして不可逆的にもたらしている作用は、ゲマインシャフト的な関係性を解体し、利益や合理性によって定義されるゲゼルシャフトへと再定義することである。

たとえば、「家族」の単位が数世代にわたる大きなまとまりから現代的な核家族へと解体された流れも資本主義の資本主義的作用のひとつとみなすことができる。旧来的な「家」を飛び出てきた核家族は、新しく家を建て、車を買い、家具や家電を揃え、子供を育てるためにベビーシッターを雇う。ある社会体で共有されているものを、もっと小さな単位で所有するものに再定義することで、社会が必要とする商品需要が増大し、経済の喜ぶ消費や税収が発生する。さらには同じことが家族の中でも起こり、一家に一台で共有されるテレビはやがて見向きされなくなり、もっと個人的な情報端末に注意を奪われることになる。つまり消費は究極的には個人を目指すのだと言える。

ゲマインシャフト的存在がゲゼルシャフト的存在に置き換えられる典型的な例としては、商店街の小さな豆腐屋だの魚屋が潰れて代わりにコンビニが建つような光景が思い浮かぶだろう。豆腐屋の主人は、なにも豆腐屋を志して豆腐屋大学を出てここに就職したわけではなく、ただ豆腐屋に生まれて豆腐屋を継いだという事情でそこに存在している。人々はここの豆腐を好んでいるというわけでもなく、単にここに豆腐屋があれば少なくとも豆腐に困らないという理由でこれを利用している。

ある存在がゲマインシャフト的な関係に基づいてそこにあるのか、それともゲゼルシャフト的な関係に基づいてそこにあるのかを知りたければ、それを全くの別人に置き換えてみれば良い。地域の豆腐屋の主人がある日全くの別人にすげ換えられていたら常連客は驚いて一体何があったのかと考えるだろう。一方で、同じコンビニで5年働いていた高橋なる人物がある日いなくなっていて、外国人研修生の陳さんやタムさんに代わっていたとしても驚く人はいないだろう。コンビニ店員はほとんど全ての意味で交換可能なパーツとしてそこに存在しているために、他のパーツに交換されていたとしても何の不思議もない。コンビニ店員が要求されているのは存在ではなくその利益、つまり労働力であって、それは他の人間や、機械にさえも置き換えることが可能だ。

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