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生きることと、生きることに意味を与えるものの等価さについて

私は上京しておきながらほとんど家に引きこもって過ごすという稀有な人生を送っているので外界の変化にはあまり敏感なほうではないのだが、それでも外に出るたびに中身のない建物やシャッターが増えているのにはさすがに気付く。街も傷ついているのだなと感じる。

社会が大きな惨事に見舞われるとまず小規模な個人経営の店舗やマイナーな文化が危機に瀕し、あるいは淘汰され、あとにはより体力のある、合理的な経営母体を持つものが残る。こういった繰り返しで○○衣料品店とか○○商店、のようなものがなくなり、見慣れたチェーン店の並ぶ街が生産されるのだろう。

こういうのをさして市場原理と呼ぶ。つまり、市場原理においては淘汰されるものは結果的には「必要のなかった」ものであり、残ったものが「必要とされているもの」だと後付けで定義される。では、究極的には必要なものとは何だろうか、必要でないものとは何だろうか。



生きるか死ぬかというような究極的な状況では、「必要なもの」とは私たちの生命維持に直接的に寄与するものをさす。飢え死にしそうな人にとってそれは食べ物であり、こごえ死にそうな人にとっては体を温めるものである。

このような状況では、花より団子というように、私たちの生活をいろどり豊かにするような様々なものは後回しにされてしまうが、それは死んでしまっては身も蓋もないために他ならない。いま私たちの社会が直面している状況では、まっさきに音楽や演劇や娯楽や飲食や服飾や、さまざまな文化がその「(比較的)必要のないもの」の側に回され、合理性の名のもとに淘汰されてしまった。

しかし依然として、これらの失われたものたちは本当に「必要のない」ものだったのか、という疑問が残る。たしかに芸術や娯楽を含む文化の多くは、私たちが生きることに直接「役に立つ」ものだとはいえない。しかし、このようにして「生きる」ことの意味を純粋な「生存」にまで縮小撤退していくと、あたかもすべての娯楽を禁止され、味のしないブロック型糧食と栄養剤だけで生活しているディストピア小説の住人と同じような疑問にたどり着く。つまり、もしも生からすべての喜びが剥奪されてもなお、生きることに意味は残るのかという疑問だ。



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△生を意味づけているものには(それがなんであれ)それだけの重みがある



私たちの生活に介在している商品やサービスは、大きくふたつに分けられる。ひとつは、私たちが生きるために直接必要とするもの(たとえば住居や食料やインフラ)と、私たちが生きることを意味づけるもの(嗜好品や娯楽やサービス、その他の文化)である。生命の危機のような究極的な状況で「必要のない」ものとみなされるのは、いうまでもなく後者である。

しかし、私たちの生活から後者のものーーーつまり生を「意味づけるもの」たちを排除していくと、生はしだいに空洞化し、色褪せ、その存在意義を見失ってしまわないだろうか。生を可能にするものと生を意味づけるものとを比較して、はるかに前者のほうが重要だと決めつけてしまうことは、何か危険なものを感じさせはしないだろうか。

究極の状態で、人間の生とそれを「意味づけるもの」のうちどちらがより重要なのか。ロシア語通訳者でもあった米原万里は小説「オリガ・モリソヴナの反語法」の中で、ソヴィエト時代の収容所で外部との接触を完全に断たれた女たちが極限状態で人間性を保とうとする努力を描いているが、実はこの描写が取材による事実に基づいていることを明かしている。以下がそのインタビューのいきさつだ。


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