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夢の反作用

昨今の音楽シーンにおけるニューエイジ・リバイバルや日本のシティポップの海外での再発見もまた、「時間の蝶番が外れてしまった」現在が失われてしまった未来の亡霊に際限なく取り憑かれていることの証左となる。シカゴを拠点に活動するシティポップDJ、Van Paugamは、『シカゴ・リーダー』の記事の中で、アメリカにおける日本のシティポップのブームの背景には、商業化された過去のノスタルジアの飽和状態が関係していると指摘する。際限なくリブートされる映画シリーズ、再結成されるバンド、等々。もはや、アメリカの若い世代は自分たちの過去の記憶に純粋なノスタルジアを感じることができなくなっている。その代わり、日本という他者―――自分たちが経験したものではない時代と場所の記憶に、ある種の新鮮で穢れていないノスタルジアを求めているのだという。シティポップの全盛時代である80年代といえば、日本はバブル景気に湧き、アメリカには安価な日本製品が大量に流入してくるなど、日本のプレゼンスが否応にも高まっていた時期に当たる。
シティポップが内蔵していた楽観的で多幸的なビジョンは90年代以降説得力を失った。だが、その楽観的で多幸的なビジョンが現在のアメリカという地で需要されている。存在したかも定かではない時と場所への郷愁と期待感。(「ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う<ダーク>な思想」木澤佐登志)



それが不可能になった今、もはや想像することすら難しいにしても、確かにかつて、希望は存在していた。希望が存在するとき、「生きることは無条件に素晴らしい」とか「人生は希望に満ちている」ということが語られる―――そして実際、それこそが希望の本質である。希望は無条件に存在するから希望なのである。しかし、希望がもはや実在しなくなったとき、それについて語ることはすぐさま嘘になるか、空虚さに吸収されて徒労に終わる。それが繰り返されるうちに、純粋な希望について語ることは不可能になり、やがて希望はプロパガンダや広告的な誇大表現の養分になり果ててしまう。

音楽シーンで過去が掘り返されることになる理由は恐らくここにある。今でも依然として、希望についてうたうことが可能であったとしても、そして当人にとってその言葉が真実であったとしても、時代に蔓延する諦観とリアリズムが否応なくそれを嘘にしてしまう。このような状況で、あらゆる希望は特殊な条件に基づいて語られることになるのだ。そして、希望を求める人たちは希望を語ることが嘘にならなかった時代の希望、過去にありえた架空の未来のノスタルジーに浸る。過去に語られた希望は、同じ言葉によっていても嘘ではなく真実だからだ。



さて、希望がその本来の様相をなしている時、それは降って湧いてくるような無条件に与えらえるもの、たとえば生命のようなものに対しても付与されるだろう。このような状況であれば「生命は無条件に素晴らしい」と言うことは詐欺にならない。

しかし、価値における合理性、つまり全ては価値の交換であるというリアリズムを生命に対して適用したときに、「無条件で素晴らしいものが発生しているのはおかしい」という問題に必然的にぶち当たる。全ての関係を代償と商品というメリット・デメリットの二項対立で捉えられるとしたら、自己の生命はまさに「降って湧いてくる」もので、何らかの犠牲や代償をともなって発生させたものではない―――これはつまり、ものの価値はその代償によって表現されるというリアリズム的な価値尺度に耐えられるものではなく、単純に主観的で曖昧な価値だと断じることができる。

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