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感覚派ヒューマニストの世界

インターネットによって席巻したポリティカル・コレクトネス的な善は、私たちが潜在的に持っていた性善説的な願望を打ち砕いた。ハラスメント、差別、偏見、ジェンダーバイアスといった議論が旧い世代にある種の衝撃と分断をもたらしたのは、これらが内包している「悪への無自覚」という視点のためである。これまで悪とはヒーロショー的な二元論によって管理されるもの―――つまり「悪人が・悪意を持って」なす所業とみなされ、「一般的な善人である私たち」と隔てられているものとして描写されてきた。

ポスト・ポリティカルコレクトネス時代の悪の議論は、「何も考えていなくても」なんとなく善人でいられた私たちに、これまで無自覚のうちに権威勾配の「上に」立っていたこと、知らないうちに差別や偏見を実践していたこと、あるいは階層的な構造に加担していることを自覚させ、悪が否認されたエデンの園から罪悪の蔓延る地上まで叩き落とした。ここで起こった大きな変化のうち否認できないものは、悪が悪意によって引き起こされるものから構造的なものに変わっていったことである。つまり、これまで悪意を持ち、悪をなさなければ善人でいられた私たちは、考えたり、知識を吸収しなければ「無自覚の悪」に加担する側に回ることになったのである。身も蓋もない言い方をすると、これまで善的(いい奴)であることはノーコストだったが、これからは面倒くさい(コストのかかる)ものになったと言える。

差別偏見が無自覚の悪であるということは、言うまでもなく、差別しないことや偏見を持たないことが難しいということであり、差別しない・偏見を持たないことを目指す場合にはその第一歩として自分が「既に」差別している、あるいは何らかの偏見を持っていると自覚する必要がある。この第一段階が、自分は善人のはずであるという信念を持ち続けてきた人間にとって耐えがたいものであることは説明するまでもない。



新しい世代が新しい善を再構成する一方で、「自分は悪者ではない」、そして「だから悪いこと=ハラスメント、差別、偏見に値することはしていない」という信念にしがみついたのが感覚派ヒューマニストたちだ。

ポリコレ、フェミニズム、ジェンダー論、ハラスメント、レイシズムや格差―――こういった議論は悪を悪意から「知識・構造の話」に置き換えていく。しかし、知識や構造の話は「勉強」したり「主体的に議論」しなければ理解できない―――この面倒さから、善を「感覚的に理解できるもの」に引き戻そうとするのが「感覚派」の人道主義者たちの傾向である。もしも悪が感覚的なものであれば現実は至ってシンプルになる。悪意のない私が「悪いこと」をしているはずがないのである。

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