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絶望を捨てることはなぜ「苦痛」なのか
生きていることは素晴らしい、と口にする人は多いが、実際に「生きていること」を心の支えにしている人間は限りなく少ない。ほとんどの人は、自分の外部に「生きている意味」を見出すこと、つまり限りなく「生きていることそれ自体」の意味を希薄化することでむしろ心の支えを得ようとする(自分の能力や財産、愛情、権力、…)。
この矛盾した態度の足元には、人間の主体そのものの不確かさが横たわっている。人間の主体は生命という「沈むことがあらかじめ分かっている船」のような基盤に乗っている。私たちは、その沈むことがわかっている船のように不確かな主体に、可能な限り「確かなもの、不滅のもの、永続的なもの」という積荷を積むことで、人間の存在としての不確かさに精一杯に抵抗しようとする。
このため、安定した人間の精神とは、人間の存在の”本質的な確かさ”を自覚できる状態などではなく、中心が空洞になっている人間の主体の不確かさを、ドーナツ状に<象徴的秩序>がぐるりと囲んでいる状態をさす。
△自我は「存在を証明できない不安定なもの」のまわりに付着している
この<象徴的秩序>は具体的には、「私はこうなったら幸せになる」とか「こうでなければ幸せではない」というような思い込みの形で自我の構造を支えている。
たとえば、「お金をたくさん持っていれば幸せになれるはずだ」とか、「あのひとと結婚すれば幸せになれる」、それか反対に「あの人が裏切ったからこうなったのだ」とか「あれがないから不幸なのだ」という思いは、それが実際に自分を「幸福に」しているのか、「不幸に」しているかに依らず、自我を支える一種の柱として機能している。
私たちが本当に耐え難く、恐ろしく感じるのは、実は「何かを得られないこと」や「失うこと」ではなく、「実際にはそれを得ても意味がないこと」や「失っても平気であるということ」に気づいてしまうことである。
われわれの不幸は、幸福の可能性がいよいよ現実のものとなりつつあると思われたまさにそのとき極致に達するのである。(「素粒子」、M・ウエルベック)
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