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何もほしくない、どこへも行きたくない

あなたはどんよりとした雲に覆われた港町に生まれた。物心ついた時から、ここの人たちは皆、港につながれた船を改良することにほとんどの時間を費やしていることを、あなたは知っている。そうして、船をより良くするために、食べ物を作ることや、友だちや家族と話すこと、休んだり遊んだりすることもおろそかになって、いつもみな貧しく、疲れて過ごしているのだ。

そこであなたは、どうしていつまでも船を良くするのか船夫に問う。

「船を毎日こんなに良くして、どこに行くんですか?」

「まだどこに行くと決まったわけではない。でも遠くへ、良いところへ行くには、船がよくなくちゃならないだろ。」

「遠くへ行くんですか?」

「いや、いつか遠くへ行くとは限らない。近くかもしれないし、それどころか乗るかどうかもわからない。だけど、遠くへ行きたいと思ったときに、船がよくなくちゃ行けないだろ。良い船があれば、遠くへ行くことも、近くへ行くことも、どこにも行かないこともできる。だから、良い船がいるのさ」

「良い船がいるのは、遠くへ行くときだけじゃないんですか?」

「いや、遠くへ行くかもしれない以上は、良い船はいるんだ。良い船がないということはね、遠くへ行きたくなったときに、行けない可能性があるということで、それはとても不幸なことなんだよ」

そう言って船夫は船を補強する材料に釘を打ち付ける作業に戻る。

あなたは、この港町でだれひとり、その船に乗ってどこへ行きたいと話しているのを見たことがない。その船が丈夫で、どんな遠くに行きたくなっても行けるという事実だけが、この人たちの幸せなのだから。



現代的な憂鬱はすべて「可能性の肥大」という一点に集約される。僕たちの人生はますます長くなり、ますます豊かな夢の可能性の渦に巻き込まれてゆく。そして、その豊かな夢はどこかで輝いているだけで、実際に訪れるものではないのだ。

「豊かさ」という、個々の中でばらばらに存在する主観的なものさしは、すぐに「金銭」や「生命の長さ」といった客観的な価値に担保される。なぜなら、人によって当人が何に満足し、幸福を感じるかという基準はばらばらで、ある人に満足を与えるものは別の人にとっては無価値であり、交換することができないからだ。

そこで人々は、「選択とそれに伴う満足」という限定的・主観的な価値より、「選択する資格・条件」という、誰にとっても同じ価値を持つものを幸福の条件に据えるのだ。

たとえば、赤い花が好きな人と青い花が好きな人がいるとしよう。赤い花が好きな人にとって青い花は無価値だし、青い花は赤い花が好きな人にとって無価値だ。だから、赤い花と青い花がどちらも100円だったとき、花を買わずに100円のままにしておくほうが、普遍的な価値は高いままにできる、ということになる。

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