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憂うつと隠された怒り

喜怒哀楽と言われるように、怒りは人間の自然な感情の発露の一部としてとして含まれるものであり、それ自体を忌避したり徹底的に排除しようという試みはむしろ感情のコントロールを失う契機となり得る。

たとえば、自分自身の行動の矛盾に怒りや罪責感のあるとき、その怒りが他人に向けられ、他人を断罪することを通じて「自分に対する怒り」を棚上げする試みは投影と呼ばれる。

そして反対に、メランコリー(憂うつ)的な状態では他人に向けられるべき「怒り」が自己に対して向かい、絶え間ない批判と処罰に晒されて自己が貧困化する。怒ることに対する罪責感や、ネガティブな思考を排除しようとする自己啓発的な文脈から「怒り」を抑圧しようとするとき、このような怒りの内向が起こり、憂うつに転化することがある。このため、怒りと抑うつの間には一定の関係性があると考えることができる。



なぜ自分を責めるのか?ー憂鬱と自己批判 では、この怒りの自己に対する方向転換を「愛する人の死」になぞらえて説明した。実際には「愛する人の死」のような極端な例でなくとも、信頼する人物や恋愛対象に裏切られるなど、実質的にその人物を「喪失」する限りにおいて同様の過程が起こると考えられる。

たとえば、恋愛対象が浮気をして自分が裏切られた場合、責められるべきなのは浮気した相手であるにも関わらず、「浮気をされるような自分が悪い」というふうに批判が自己に対して向く場合がそれにあたる。フロイト的に説明すれば、メランコリーは「失われた(または失われつつある)対象を自我に取り込むことによって」その喪失から逃避するような防衛反応だといえる。愛する対象に裏切られたり、幻滅させられた人は、その対象と同一化する(自らそれになる)ことによって対象との関係を断念する必要がなくなる。

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