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リアリストはなぜ話が通じないのか?

どんな人も、何かを特別に重要だと考えることによって生きる糧にしています。その多くは、社会で成功してお金を稼ぐこととか、子供を育てることとか、あるいは信仰的なものかもしれませんが、もっと個人的なものに対する愛好を糧に生きている人はオタクなどと呼ばれたりしますね。

いずれにせよ、その「信じているものがある」から生きていける、という主観的な部分を取り沙汰すれば、どんな人もオタク的であるという言い方もできるかもしれません。

一方で、特別に個人的なものを糧にして生きている人にとって避けられないのは、「自分が信じている」ものの価値を冷笑されたり、否定されるという経験です。特に、趣味を持っている人は、以下のような物言いをする人たちに遭遇したことがあるかもしれません。



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このような物言いをする人たちは、自分のことをリアリスト(現実主義者)だと言ったり、思っていたりするようです。リアリストにとって、自明に存在していない何かーーーたとえば神様とかサンタクロースとか、キャラクターへの愛情とか、実益に繋がらない趣味とかーーーこういったものを「信じている人」は非科学的で、愚かな人たちです。

しかし、実はこの(自称)リアリストの態度も、厳密にはある哲学的なポジションの名前が与えられています。それは素朴実在論です。



素朴実在論って何だい?


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△素朴実在論の認識



素朴実在論とは何か、というのを説明するために図を描いてみました。素朴実在論という考え方はかんたんに言えば、図の上のように「わたしがあると感じているものはあるのである」という一種の自明性を頼りにした存在論だといえます。たとえば、わたしの目の前に木や石があったり、コップがあって触ることができるときーーーわたしは「それが存在している」という自明的確信を得ます。

しかし、厳密にいえばこの考え方には明らかに穴があります。たとえば、わたしが目の前に「木がある」と知覚していても、そのあと目が覚めればそれは「夢の中の木、存在しない木」だったということになり、実在は否定されるかもしれません。あるいは、失った手足の痛みを感じる幻肢痛も例として挙げられるかもしれません。痛みは、あくまでわたしたちの知覚が発生させているものなので、人は実際には失われている手足などの痛みを感じることがありますが、それは手足が依然として存在していると証明するものではありません。

このように、「知覚することが可能である」というのを存在の条件に据えてしまうと、不確かなものの存在を盲信してしまうというリスクが生じます。(確か映画「マトリックス」は、私たちが存在を確信している世界がシミュレーションだという設定でしたね。)

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