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憂鬱と余裕の往復運動

「これがなければ生きていけない」というものを失ったとき、人は深い絶望に見舞われ、死を願うことがあります。たとえば、「お金が沢山なければ生きていけない」というのなら、自分の持っているお金をほとんど失った人は首をくくるかもしれません。しかし、わたしたちの暮らすような複雑な社会では、お金がないことによって飢えて死ぬよりも先に、だいたいの人は自ら命を断つことになります。それはお金に限らず、精神的(つまり”わたし”の中にあるもの)な資産は物質的(外界や他者に由来するもの)な資産より先に尽きるということです。私たちは、「これがなければ生きていけない」と考えるものが不足したとき、むしろ自分自身を攻撃することによって「生きていけない」を実現させる側に回ってしまうのです。

ですから今回は、この精神的な資産が尽きるときのこと―――つまり絶望、について考えてみましょう。



さて、前回言ったように、まず絶望の実態やその本質の如何についてより、絶望との付き合い方について書いておきたいと思います。

前提として、多くの人はふだん、煩雑な日常や様々な娯楽、人付き合いに忙殺されて、「私は何者なのか」などといった難しいことは考えません。そして、自己について考えないこと、どうでもいいことにかまけたり、くだらない何かに煩わされていることは、人が絶望に陥らないために無意識に行っている最良の選択であると言えます。(もっとも、この状態は絶望の準備段階であり、絶望の別の形であるという考え方もあります。それについては後述します。)

では、そのような人が自己について考えるのはどんな時かというと、何かを失って絶望したとき、信じていたものに裏切られたとき、自己について考えざるを得ないほどに打ちひしがれた時です。では、絶望的な状況でしか自分自身や深刻な問題について考えない人は、自分自身に対してどのような考えを持つでしょうか?言うまでもなく、それは自己や世間に対する暗く悲観的な考え方です。考えれば考えるほど世界はおぞましく、また自己も空虚で絶望的な存在になってゆくでしょう。夜にしか家の外に出ない人が、この世に太陽はないと思うのと同じようなことです。

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