前提として不安定:理不尽と不平等への説明
精神分裂病者は「自分が消え失せてしまった」といったたぐいのことをしばしば言うが、そう言う彼に対して、彼の存在を論理的に証明してやることはできない。われわれは「何を馬鹿なことを言っているんだ」とか「君はそこにいるじゃないか」とか、理屈にもならない理屈を並べ立てることしかできない。というのも、論理的につきつめてゆけば、正しいのは彼のほうだからである。(「幻想の未来」、岸田秀)
一般的に精神が抱える問題は、健全で満ち足りた精神を想定してそのまわりに欠けや不具合が発生することと捉えられるが、精神分析では代わりに中心にある「空洞」を覆い隠す構造が不可能となることがそれを説明する。「不安定な精神」とは「安定した精神」や「健全な精神」のメッキが剥がれ、より根源的な内部である空洞が露出した状態だといえる。
仏教でも同様に、精神はこの埋めることのできない欠如を起点とする。人間はあらかじめ失われることの知らされている生命を与えられ、証明することのできない自己の存在を証明する試みに囚われる。
この欠如のほうを出発すれば、精神を「安定させるもの」とは逆説的に精神の「不安定を説明するもの」と置き換えることができる。欲望は、説明することのできない根源的な欠如を、対象の欠如に置き換えて説明する。
たとえば消費社会では、精神的な不安定は商品の欠如によって説明される。商品を購入すれば、わたしたちが抱えている根源的な欠如は「埋められる」と広告はうたう。しかし、実際にはその根源的な欠如を埋めるのは商品ではなく、その商品が欠如を埋めてくれるという「期待」そのものであり、その効果も長続きはしない。「期待」はそれが実現された瞬間に雲散霧消し、後にはその最も重要な役目を終えた商品の抜け殻が残る。それでもわたしたちが商品を必要とするのは、むしろそれによっては本質的な「欠乏」が補われないことを確認するためですらある。
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