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「負の信仰」の時代―――攻撃しながら依存する

貪り食う動物の喜びと、今まさに貪り食われている側の動物の苦しみを足してみたまえ。世界には苦痛のほうが多いことが容易に判るだろう。(「意思と表象としての世界」、ショーペンハウアー)



科学信仰に基づくならば、この世界についても、あるいは個人の生についても、喜びと苦痛の総量を調整し、帳尻を合わせる超越的な存在はない。そしてショーペンハウアーが言うように、喜びと苦痛の総和は苦痛のほうに傾いているのだから、一般的に言って生は喜びよりも苦痛に満ちていると言ったほうが適切だろう。

そして、この苦痛は何よりも根源的なものであるがゆえに、人間のほとんどの個人的思考と個人的信仰はこの苦痛の正当化という目的に向かうことになる。逆に言えば、生が根本的に理不尽であり、苦痛に満ちているという最終的結論に至らなかった思惟のバリエーションがさまざまな個人的信仰を形成する。

人間が未来や希望とかいった概念を何よりも好むのは、このような形で正当化すべき現在があることの裏返しに過ぎない。現在を受け容れる存在には、未来など必要ない。



“カフェイン入りドリンク”としての希望


希望は原理的に外部を必要とする。なぜなら、希望とは未来が現在よりも良くなっていると考えるための根拠であり、その拠り所として常に「外部」を要求するからである。



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希望の第一義は、現在と隔離された「外部」に幸福の在り処を想定し、現在の苦境や不遇を正当化することにある。たとえば人は「意味のない労苦と理不尽」には耐えられないが、その労苦が報われる未来がどこかに存在すると考えることで途端にそれが「意味を持つ」。何よりも耐え難いのは苦難それ自体ではなく、それが「全く無意味」であり、それを正当化し記述する手段を持たないことである。

このため、何らかの超越的な存在が善悪や、喜びと苦痛の「バランスを取ってくれる」という期待はさまざまな信仰に反映される。なかでも、来世益や天国の存在のように「帳尻合わせ」の段階が死後に来る信仰は、苦痛が報われて意味を持つという期待を「死ぬまで」有効にする。それでいて信者は、決して騙されることはない―――少なくとも、騙されたと気づくことは不可能だからだ。

であれば、科学的推論にしたがってこのような宗教的信仰を解体するときに留意しなければならないのはこの「苦痛が廃棄される外部」としての死後観を喪失することだと言えるだろう。つまり、信仰を捨てた現代人は現世の苦痛について「生きているうちに」帳尻を合わせなければならない―――でなければ、希望によって正当化してきた苦痛というつけが絶望として一気にやってくる。


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