見出し画像

自己嫌悪に陥りやすい人

自己肯定感のある人とは、何でもないわたし、何もしていないわたし、何の性質も伴っていないわたしの存在を受け容れられる人のことである。たとえば、何かをやろうとしてできないとき、自己肯定感のある人はそれをできない自分を認めてやることができるが、自己愛の強い人はできる自分でなければ愛せないと考える。

精神的に強い人はなぜ自分を肯定できるのか、という根拠を自分の存在そのものに置いている。しかし、精神的に弱い人は仕事ができる私、見た目が美しい私、誰かより優れている私…といった条件面にその根拠を置く。自分自身を好んでいないために、誰かに証明してもらえる要素を介して自分を愛そうとする。しかし、外的な要因に根拠を置けば精神はたえず揺るがされることになる。

自己肯定感のある人は、理由なく自分自身を受け容れられるために、全く同じように他人に対しても条件なしの肯定を持って接することができる。いっぽう、自己肯定感を持たない人は自分にも、他人に対しても「こうだから好き」「こうだから嫌い」といった好悪が先立ち、存在そのものを肯定することができない。



自分に対して愛情を向ける方法が、同様に他人に対して反映される理由は単純にひとりの人間が複数の愛情の方法を使い分けることができないからである。自分の中に許すことのできない、受け容れられない側面のある人は、他人のある側面の中に自分の気に入らないところを投影し、あたかも自分がそうであるかのように憎悪する。同族嫌悪という言葉はこの性質のことを言っている。

たとえば、わがままな自分を許せない人は、他人に対する自己主張を控えるように気をつけて暮らしているが、誰かがわがままを言っているのを見ると、あたかも自分がわがままを言ってしまったような自己嫌悪を刺激され、その誰かに対する激しい感情を抱える。このときその誰かを攻撃するとしたら、それは「わがままを言っている自分自身」を攻撃しているのだと言える。あるいは自分自身に対し、怠惰であるのはよくないことだ、という厳しい監視の目を向けている人は、サボっている人を見つけて糾弾しようとする。この人は、自分がサボりたいと思っているからこそ、サボっている人を見ると自分の中にあるその感情が喚起されて、抑圧する必要が出てくる。だから、自分がサボるのを我慢する代わりに、サボっている誰かを攻撃する。

弱音を吐いてはいけないと思っている人は、誰かが弱音を吐いているのを見つけて攻撃することで自分自身の弱さを抑圧する。外見に劣等感コンプレックスを持っている人は、自己嫌悪に襲われるので自分と似た人を見たがらない。自分の中にあるどうしようもない問題を解決する代わりに人は、同じような他人を攻撃する。他者を攻撃することは、他者という鏡に映った自分自身の醜さを攻撃することに他ならない。

では人は、なぜこのように回りくどい方法を取るのだろうか?


ここから先は

2,678字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?