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信じなくてもいい"神"

ケインズは株式投資の仕組みを「美人投票」という例え話にして説明した。新聞投票で100枚の写真の中から最も美人だと思う6枚を選んで読者が投票し、その中で「投票者全体の平均的な好みに最も近い者」に賞品を与えるとする。このとき、投票者は最も美しい写真ではなく最も「美しいと思われるであろう」写真を選ぶことになる―――つまり多くが、自分が主観的に美しいと思う写真ではなく他人が美しいと思うであろう要素を備えている写真を、客観的に判断して選択するのだ。この場合、後者の定義に当てはまっている限り、場合によってはそれぞれが本心では「最も美しくない」と考えている写真でさえ、最多票を獲得することも考えられる。

この美人投票の結果は、投票が求めるところの「個人の正直な主観の集合」ではなく、「それぞれの個人が想定した他者の主観の基準」という一種の予測の集合であり、最多票は「私が/美しいと思う」という主観的真実のただのひとつも保証しない。もっと言えば、その予測は他の投票者がどの写真を美人と思うかの予測ですらなく、「どの写真が美人と思われると(他者によって)予測されるか」という予測であり、「どの写真が美しいのか」という投票がテーマとして持つ不確定な主観性からは遠く離れている。

しかし言い方を変えればこの仕組みは、「私がどの写真を美しいと思っているか」という主観的な明言を避けるのに役立ってくれるだろう。賞品を獲得した「最も平均的な好み」の投票者は「私の好みは平均的だったようです」と言うことによって自分の本当の好みを明かさなくとも、「私の予測は当たったようです」としておけば実際にはどの写真をも「美しい」と思わなくて済む―――主観の手間が省けるのだ。



ジジェクによれば、資本主義は一般に、この関与否認の構造によって支えられる。お金は本質的に価値のない、無意味な代用品だと信じていながらも、私たちは、それがまるで聖なる価値を持つかのように振舞う。そしてさらに、この振る舞いはまさにそれに先行する関与否認に依存している。すなわち、頭の中ではすでにお金に対してアイロニカルな距離を取っているからこそ、私たちはお金を物神崇拝することができるのだ。
(「資本主義リアリズム」p40、M・フィッシャー)


ニールス・ボーアは「神はサイコロを振らない」と言ったアインシュタインに対し、的確な答を返した(「何をすべきかを神に命令するな」)が、彼はまた、物神崇拝的な信仰否認がいかにしてイデオロギー的に機能するかについての完璧な例を提供してくれる。ボーアの家の扉には蹄鉄が付いていた。それを見た訪問者は驚いて、自分は蹄鉄が幸福を呼ぶなどという迷信を信じていないと言った。ボーアはすぐに言い返した。「私だって信じていません。それでも蹄鉄を付けてあるのは、信じていなくいても効力があると聞いたからです」。
(「ラカンはこう読め!」スラヴォイ・ジジェク)



そして前回、資本主義や拝金主義を支える引用部分の「関与否認」の構造について説明した。美人投票で賞品を得るためには写真を本当に美人と思う必要がないように、拝金主義においては金銭を心から「信仰」する必要がない。信仰しなければ作動しない宗教神やその他哲学的信念と違って金銭はまさに「信じなくても(他人の力によって)作動する」という点で勝っていた。金銭は(神と違って)人間に対し、ジジェクが言うように「(心では)軽蔑しながら(行動では)崇拝する」という分裂を許してくれるが、これは「卑屈」の構造そのものと言える。卑屈な人間は心から尊敬しない対象に対してもみ手するが、いっぽう心中では相手を軽蔑しているという前提を守るためプライドはそのまま保存されていて傷つかない。表面上、対象を敬わなければならないという現実が「間違っている」からこそ、その現実をそのままトレースして演技し、自分が本当に思っていることを意味深に隠したまま持ち続けることができる。

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