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便利になるほど忙しくなる、という矛盾

「みんな、たいへんいそいでるね。なにさがしてるの、あの人たち?」
「それ、機関車に乗ってる男も知らないんだよ」
(「星の王子さま」、サン=テグジュペリ)



産業革命の起こった18世紀から数百年というもの、人間たちが直面し続ける問題として、テクノロジーが進歩し、世の中が便利になればなるほど、反比例して人間の労働時間は増大し、むしろ忙しくなるという矛盾がある。システム、機械、人工知能が人間活動を効率化し、代行し、時間を節約した人間はますます自由になる、という目論見ははずれ、人間はむしろシステムと労働を争奪し、システムによって節約された時間はそのままそっくり種々の労働儀式に費やされることとなった。

資本主義社会では競争の対象として金銭があり、人々はおおむね金銭とそのもたらす種々の権利について争っているという通念が受け容れられている。しかし、この謎に関してここで向き合わなければならないのは、実際には資本主義社会で争奪されているのは金銭ではなくその価値を裏打ちするもの、つまり金銭を獲得する過程に伴っている労苦そのものだという側面だ。



原初的には、人間やその他の生物に対してもたらされる恩恵は所与のもの(ありふれているもの、皆に既に与えられているもの)に由来している。

太陽光は地球上の全ての循環の根源として無償で降り注いていでいる。地球上の生物活動はすべて直接的ないし間接的に太陽光に依存していて、いかなる生物も自立・独立しているとはいえない。この途切れないエネルギーは地球上の全生物に対して<あなたは存在してもよい>というメッセージを発信する。

人間の親子では、自力で生活することのできない幼児に対して親が無償の愛を通じて<あなたは存在してもよい>というメッセージを送る。子にとっての虐待やネグレクト、つまりこの無償の愛が途切れることはすなわち死を意味し、激しい存在不安を呼び起こす。愛されている<存在を許されている>ということがそのまま自己の存在意義として機能する。

しかし、子にとっての一方的に愛情を受け取る関係は様々な条件付けによって終わりを告げる。長男長女は、妹や弟が生まれ、それまで一身に浴びていた愛情を分散され、希薄化して受け取ることになる。「お兄ちゃん/お姉ちゃんなんだから・我慢しなさい」という交換条件を知らされるとき、長男長女は愛情が有限であることを知り、「自分が我慢すれば」「弟/妹が愛情を受け取る」という愛情へのゼロ和ゲーム(全員の利得の総和が常にゼロになる)的な理解を深める。ここで親の愛情、すなわち自己の存在意義は、はじめて所与のもの<既に与えられているもの>ではなく獲得するもの<いい子にしていると与えられるもの>という交換物としての側面が意識される。子は愛情が途切れるのではないかという存在不安を抱え、親に奉仕することで愛されるという交換条件を習得する。



資本主義社会、競争経済社会における金銭はまさにこの親から子への愛情、<あなたは存在してもよい>という感覚を代替する。資本主義社会の住人は例外なく金銭なしに生きてはいけないが、そのことは同時に金銭さえあれば生きていてよいという存在への許しを要求する。金銭は、生きていくために必要なものであるだけでなく、生きていてよいための条件であることを同時に求められるのだ。金銭は、親からの愛情が途切れるかもしれないという子の不安を、そのまま社会と個人に置き換えて、<何者かに見捨てられるかもしれない>という根源的不安への対案としての、精神安定剤のような役割を任される。換言すれば、金銭は<私は存在していてよい>という意識を私の主体から切り離して社会体に移植し、オートマティックに供給する装置として流通している―――お金があるから、まだ私は生きていてよい。

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