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自分の行動原理を説明できないことは恥ではない

ちょくちょくオタク的男性とフェミニスト的女性の間で喧嘩になる話題がある。それは女性が男性に対して「誠実な男性に魅力を感じる(もしくはそれが全てですらある)」と自認する傾向にある一方で、男性のほうでは女性は実際には「どこまでも倫理的な男性よりも(浮気症であるとか高圧的といった態度にたとえられる)多少たちの悪い男性を好んでいる」という認識があって、そのずれについての議論だ。

この認識のずれは性別を逆転させても恐らく存在するもので、男性が女性に過剰なまでの性的倫理を求める一方で、奔放であったり狡猾な女性のほうが持て囃されているという指摘も問題なく成り立つだろう。

欲望が都合よく倫理に根ざして働くということはないので、異性関係に対してそういう不合理が働くことは考えられなくもないだろう。たとえば私が、決められたパートナー以外に対してはロボットか悟った僧侶のように一切性的興味を持たないような存在であれば、浮気を望まないパートナーにとって都合は良いだろうが、これを誠実と表現してくれる人はいない。なぜなら単に欲望がないなら何も我慢していないわけで、それを誰かのための努力と考えることもできないからだ。



欲望の不合理に関して、多感な中学3年生の国語教材に採用されたトーベ・ヤンソン「少女ソフィアの夏」の中の短編「猫」がある。あらすじを言うと、ソフィアという少女がマッペという黒猫を飼っている。この猫は奔放で愛情を注いでもそっけなく、野性が強いので与えられた餌も食べずに小鳥だの小動物を狩ってきて少女を困らせる。そこでスヴァンテという、もっと飼いならされた猫に交換する。撫でられてもごろごろ言ってされるがままで、与えられた餌も不満なく平らげる。しかし結局ソフィアは自分で望んだとおりの飼い猫よりもどうにもならない野性猫がよかったと思い直し、もういちど猫を交換することになる。

この短編を人間同士の愛情関係になぞらえて考えるかは読者に任せるとして、いずれにしろここでは欲望に関する事実が簡潔に表現されている。人間はどうにかなるものよりどうにもならないものをどうにかしようと試みるのである。少女漫画によくある嫌いな相手を好きになる描写はその典型例だ。欲望とは対象との距離が開いているということであり、対象に到達していることではない―――ここでのスヴァンテは欲望への到達、つまりさっきの性欲を持たない人間の誠実さを示している。少なくとも欲望の力学においてはそれは価値がないのだ。

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