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繊細な人を叩くのはだいたい繊細な人

先日、TwitterのトレンドにHSP(とても敏感な人)に関するネット記事が上がっているのを見かけました。「傷つきやすい人」「繊細な人」をどのように定義するのかはともかくとして、ネット上では何らかの被害の訴えやそれに対する擁護と反論、あるいは誰かが傷つくような発言や表現に関する議論(ポリティカル・コレクトネスとかコンプライアンス)が頻繁に交わされ、いずれにしろ「傷つきやすさ」や「配慮」が中心的な位置にあるという背景があります。

そして、そのような環境にあって否応なしに「繊細さ」「傷つきやすさ」に対する反感が高まるらしく、自分の被害者性を訴える論調に対して皮肉じみた造語が濫用されるのを見かけるようになりました。中でも代表的なものが「お気持ち」です。「お気持ち」はネット上では特に傷ついた心や被害者の訴えを揶揄を込めて軽視する文脈で使用される言葉で、「お気持ち表明」とか「お気持ちヤクザ(自分の被害者性を強調して相手を言いくるめる人)」という感じで活用されているようです。(※)

言うまでもなく、こういった皮肉っぽい言葉を遣う人たちは「相手が繊細で」「自分はそうではない(図太い)」と相対的に自分を「強い」側に置いているわけですが、今回は「私は繊細ではない」という表明が実はその人の繊細さを表している、という話をしたいと思います。



自己責任論とは何なのか


さて、「繊細な人」の大きな特徴のうちのひとつは、その共感性の高さです。共感性の高い人は、苦しんでいる人を看過できず、同じように苦しく感じたり、あるいは不機嫌な人がいると自分まで不快になってしまうようです。一方、「図太い」人は、誰かが苦しんでいたり、不機嫌になっていても、それはその人の問題であると考えて、自分は上機嫌でいることができます。共感性の多寡は、「繊細さ」を左右する大きな要素のひとつと言ってよいでしょう。

ネット上では、常に何がしかの問題が論われたり、被害が訴えられているために、全ての問題に対して責任を感じていると「繊細な」人は傷つき続けなければなりません。反対に、他人は他人だと切り分けてしまっている人は、そういったものに対して言及せず、被害を訴える人を尻目に今日食べたものの写真をアップロードします。この光景は、図にすると下のようなものです。



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池に落ちた人のそばでアイスを食べている人と、「落ちたのはお前だから自業自得だ」と言っている人がいるとき、一見するとどちらも同様に残酷なように見えます。しかし、AとBには「共感している」「していない」という大きな違いがあります―――Aの人が、苦しみを訴えている人がいるにも関わらずアイスを食べておいしいと言うことができるのは、水に落ちた人に共感をしていないためです(実際には、ネット上ではどんな被害者も「見に行かなければ」存在しません)。

一方、Bの人はいわゆる自己責任論者ですが、この人が「落ちたのはお前だ」と責めているのはなぜでしょうか?ネット上には、それこそ自分とは全く無関係の人間が無数におり、あらゆるネットユーザーはほとんどの問題について何の責任も持っていません。そして、インターネット上の情報は基本的に自分からアクセスしに行かなければ見られないため、無関係だと思うなら無視して構わないのです。

しかし、セカンドレイプのような二次被害が問題になっているように、自己責任的な論調の人は、自分から問題に首を突っ込んでいって「あなたが悪い」と切り離しを試みようとします。このことから自己責任論者は、はじめからものごとを自分とは無関係だと切り離して考えている人ではなく、むしろ自分と関係のないことに責任を感じたり、共感して傷ついてしまう程度が激しいために、わざわざ傷ついている人のところまで行って「私には関係ない」と表明しなければならなくなっている人たちだと考えるほうが自然です。

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