見出し画像

政治的な発言は誰でもしていいよって話

こんにちは!小野ほりでいだよ。

最近、SNSやネット上で政治的な発言や意見を目にする機会が多くなったね。僕は基本的に、ネットでは「ネコの画像とか面白い漫画のほうが見たい!」と思っているのだが、それでもいろんな意見が活発に出されているのは良いことだと思うね。なぜなら、色んな意見が自然に出されていてどれも不当に抑圧されていないというのは民主主義で大事な前提だからだ!

でも最近、「有名人や音楽家は政治的な発言するな」とか「内容によらずもう意見自体を言うな」みたいなことを言う人たちも沢山いるように見えるね。それは少しまずいと思うので、少し面倒ではあるが今から書くことについて考えてほしいと思います。



画像1

△意見が異なっていても「言うな」とはならないのが民主主義じゃんね



まず民主主義の国では「みんなの意見が違う」ということが前提になっているね。みんなそれぞれ立場や意見が違うのは当然だから、話し合って最適な結論を出そうよ、ということになるね。

そして、選挙とか多数決の原則では少数派の意見は最終的には採用されないけど、少数派の意見が「言うことを認められていた」という事実はめっちゃ重要になるね。なぜなら、最初から言うことが禁止されていた意見があったら話し合いや投票の公平さがなかったことになるからだ。

これはつまり、どんな人も自分の意見や立場を表明していいということであると同時に、「あたしはなんも言ってないけど結果的にあたしが望んだ形になってないじゃん!むかつく!」と言うのはその責任を果たしていないということにもなるじゃんね。だって、僕たちが何を望んでるかは僕たち自身しか知らないし、それを言わなくても読み取って実現してというのは無理があるから。これは政治や社会以前に人と関わるときにも同じことが言えるね。

実際にはそんな単純なことではないけど(そして逆になってることもあるけど)、たとえば「社会をよくするにはこれを変えるべきだ」と言ってる人たちが左派、「いやここは変えないで残すべきだ」と言ってる人たちが右派だとしよう。この人たちは意見こそ違うけど、「社会に良くあってほしい」という目的では同じ立場なので、共通のゴールに向けて最適な結論を目指すのがふたつの派閥が「対話」を試みるメリットになるね。

つまり、言っていることは反対でも、しようとしていることは同じで、そういう意味では意見を交換している人たちは「仲間」でもあるということだね。



画像2

△「どっちでも関係ないが意見を言うな!」という人登場



では、「(少なくとも名目では)社会を良くするにはどうしたらいい?」と話し合っているとこに、「うるさい黙れ!意見を言うな!」と言う人が入ってきたらどうなるかというと、この人はもはや社会に良くなってほしいなんて思っていないということになるね。異なる立場が混在する社会では、問題をどう解決すべきか話し合える環境が不可欠じゃんね。だから、「意見を言うな」という人たちは、どっちにしろ「社会を良くするために話し合っている」人たちにとっては邪魔だということになるね。だから僕は、こういう人たちに対しては、右寄りとか左寄りの政治的信条の違いを越えて「いや、だめでしょ」と言わないといけないのではないかと思うね。そこに対して「そうだそうだ!誰も意見を言うな!」という政治信条もあるけど、それはそれぞれの意見が尊重されるという民主主義ではなくて、全体主義というものなので、「民主主義うぜー!もっと同調圧力を蔓延させて全体主義にしろよ!」と言ったほうがわかりやすいかもしれないね。



「意見を言うな」というひとたちの言い分


それでも、誰かに「じぶんの意見を言うな、表明するな」と主張する人たちの言い分は、たとえば次のようなものがあるね。


・おまえは音楽家なんだから音楽だけをやっていろ

有名人に対して、自分の仕事だけやっていろ、余計な口出しをするなと言う人がいるけど、社会に属している人はみんな個人であると同時に社会人なのだから、所属する社会に関する対話に参加する権利も責任もあるよ。

また、政治信条と文化的な表現は切り分けて考えるべきだという人もいるし、僕もそう思うけど、それは表現者は思想を表明するなということではなくて、表現者が思想を表明してそれが自分の思想信条と異なっていたとしても、表現物は表現物として切り離して見てもいいということで、たとえばすごく差別的なことを言った人の作った映画だからつまらないとか、狂った思想の人間が作ったお蕎麦だからマズい(と思わなければならない)というわけではないということじゃないかな。

自分の好きな音楽家が、たとえば政治的な立場を表明して、それが変だったり、自分と違ったらショックを受けるかもしれないけど、それで音楽までつまらなく聴こえたとしたら、それは僕の責任だということだね。もしも、政治とは関係ない分野の、たとえば難しい文学を書く人とか有名な芸術家が、政治に関しても鋭い発言をすると思って妄信してしまうとしたら、それも勝手にそう思っている僕が悪いね。

有名な人が政治的に間違った発言をして幻滅した?それは、F-1レーサーが走ったら遅くてガッカリしたと言ってるのと同じようなことじゃないかな。



・あんたは素人なんだから間違った意見を広める恐れがある


日本では国民主権がうたわれている、つまり政治について専門家でもなければデマや風説に簡単に騙されてしまうかもしれない国民が統治権を握っているということになっているね。だから、どの人も意見を言っていいし、その意見が違ってたりばらばらになるのも仕方ないじゃんね。

間違った意見を言ってはいけない?いいえ、民主主義なんだから意見は言っていいよ!というか意見なんてみんな違って当たり前だし、意見がみんな最初から同じなんだったらそもそも意見を言う意味がないよ。

対話での意見は、自分の言った考えを教祖の言葉のように全員が鵜呑みにして信じるわけではないので、「私はこう思うんだけどどうですか?」という程度で表明してもよいはずだね。そして、間違っていたら、誰かが「ここはこうではないですか?」となって、自分の知識の盲点や偏りが改善されて、もっとよい意見に発展させることができるね。

逆に、間違った意見は絶対に言ってはいけないという前提があったら、間違った意見を持っている人はそれを表明することは絶対にないから、それは間違ってますよと言ってもらえないし、どこがどうおかしいのか知らされもしないまま死ぬまで過ごすことになるね。意見を言うことは、誰かの意見を変えさせるためだけの行為ではなくて、自分の考えをまとめたり、自分の意見自体をよりよいものに変えるためにも必要不可欠なんだね。

それに仮に、「意見が正しい」ということが絶対で、正しさを志している人がみな「自分は間違ってるかもしれないから黙っていよう」となったら、むしろ悪意を持って全員を騙そうとしている人だけが意見を言うことになるね。そして、悪意を持って全員を騙そうとしている人が、めちゃくちゃなことを言っていても、それ以外の人は間違っているのは自分かもしれないから黙っておこうとなって、誰も訂正しなくなるじゃんね。



なぜ「意見を言うな」とと言う人が多いか?


これについては、いくつか仮説を考えてみたのでヒマな人は読んでみてね。



・喧嘩してると思ってる説

単純に、AとBが「対話している」構図から「対立している」という関係だけ読み取って、喧嘩をしてる夫婦の間に犬がテニスボール持って仲裁に入る感じで「やめろ」と言っている人はいそうだね。これについては、実際に対話や意見交換を逸脱して人格攻撃合戦を繰り広げている人たちにも責任があるね。ところで、なんで対話が人格攻撃に繋がるのかというと、次のような事情があるね。



・アイデンティティ結合説

自分の所属イデオロギー(政治、思想信条)が自我の安定に直結している、たとえば精神的安定を社会基盤の完全性に依存している人は、自分が依存している社会基盤への意見や懐疑論に対して「自分自身への攻撃である」と認識することが考えられるね。反対に、自分の人生がめちゃくちゃなのは全部誰かや何かのせいだと思っている人も、その何かに対する部分的な肯定が認められずにむかつくかもしれないね。もっと単純に、「自分の意見は自分の一部である」という肥大した自我を持っている人も、異なる意見や指摘は自分自身への攻撃ととるので、これらの人は意見や反論をなしてきた人に「正当防衛」として攻撃を加えるかもしれない。

この人たちにとって対抗意見や指摘は、自我の一部となっている理想化された世界の「穴」のようなものであるので、「それに関して何も言うな」というふうに意見そのものを抑圧しようとする試みもあるかもしれないね。



・ノンポリ信仰説

自分で意見を持ったことのない人は、なにかを主体的に表明している人を「うわ、怖!」と思ってしまうかもしれないね。

少し話がずれるけど、たとえば、日本に生まれたひとはキリスト教やイスラム教を信仰していないことがほとんどだけど、自分がよく知らない宗教や神様を信じている人に対して「なんだかよくわからなくて怖い」という感覚を持つことは不自然ではないかもしれないね。

そこで僕たちは「なんの信仰も持っていない自分はフラットな考えの持ち主だ」と誤解してしまうんだね。ところが、自然にその神を信仰している人たちの国やコミュニティに行くと、同じ感覚を持った人間が当然のように神を信仰していて、信仰していない自分のほうが少数派になってしまう。このときに、自分は「なにも信じていない」のではなく「神は存在していないという見方を信仰している」という相対的な立場に立たされてしまう。

これと同じように、政治的イデオロギーに関しても「何か考えを持っている」という状態じたいが、ひとつの信仰のように恐ろしいという状態が考えられるね。そして自分は「イデオロギーがない、すなわち偏っていない」と考える。ところがこれはさっきの「神は存在しないことを信じている」のと同じように、「政治的な考えを持つべきではない」という政治的な考えを持っていることに無自覚な状態だとも言えるんだね。



・俺が我慢してることをお前も我慢しろ説

人間の心理というのはややこしいもので、自分が我慢していることを普通にしている人を見ると「おいやめろ!お前も我慢しろ!」と言いたくなる気持ちが生まれるみたいだね。最近では自粛警察(おれが我慢してるんだからお前も自粛しろ!)という言葉が話題になったし、よくあるのではまったく恋愛をできない人は恋愛をしている他人を憎悪したりなんとか妨害しようと試みたりするということがあるね。

だから、「おい、お前は自分の意見を言うな!同調圧力に屈しろ!」と言われて育てられた人や、「お前はこの政党に投票しろ!それ以外を支持するやつはバカだ!」と言われて育てられた人は、自分の意見を自由に表明している人に対して嫉妬や憎悪をおぼえて、「あんたばっか意見を言うのはズルい」と横やりを入れるかもしれない。この「言ってはいけない」「やってはいけない」という感覚は、はじめは誰かに押しつけられたものでも、やがては自分で自分で課すようになるものでもあるね。



・イデオロギー覆面説


画像3

△クマ派とパン派の論争



とっても繊細なひとで、「自分の意見が間違っていて相手に違うよと否定されたり恥をかいて傷ついてしまうかもしれない」と心配している人は、相手が言っていることに「ここが違うんじゃない?」と言ったり、「わたしはこう思います!」と言うと、自分の立場や考えが明らかになって批判を受けるのでそれを避けようとするかもしれないね。

そうしたら、その人の主張している内容に触れずに「なんでもいいからとりあえず黙れ」と言ったり、本筋と関係ないところで揚げ足を取ったりすることで溜飲を下げる人がいることになるけど、そういうことはインターネットが意味のないケンカで溢れていた時代からずっと起きていたので別に不思議ではないね。

でもこれもまた、自分と少しでも意見の違う人を見かけたら、あなたはどこそこの集団に所属している人間だろうと決めつけて攻撃するような、幼稚な対立の光景がいつも繰り広げられているからこそ起こってしまう面もあるだろうね。



総括すると・・・


少なくとも、僕たちが民主主義国家のひとりの国民であって、建設的な議論のために意見を言うことを期待されている以上は、意見を言っているひとたちはみな内容は違えど共通の利益のために対話している仲間だということになるので、対話や議論を「するな」「黙れ」とだけ言うことは、立場やイデオロギー(自分の信条)の差よりもずっと前の段階で同意できない面があるね。

だから、妙な意見やまちがった意見であっても、少数派の考え方であっても、「言ってくれたということ」それ自体はみんなが肯定しなければならないということだね!「あんたの言っていることはめちゃくちゃで間違ってるしゴミだと思うけど、言ってくれてくれたこと自体はとても良いことだしうれしいよ!チュ!」という気持ちを持っていこうね!



画像4



このように、右派や左派、保守とリベラル、ネオリベと共産主義者といったイデオロギーの差を越えて、「意見を言うな」という抑圧を広めている人をボコボコにし、二度と口を開けないようにすることで、たとえ皆の対話によって導き出される結論が最悪のものであっても、健全な民主主義は運営可能になるのだと言えるね。

ところでこの記事は、ところどころでおかしいところがあったと思うけど、それにあなたが反論することができるのは、僕たちが住んでいるのが全体主義国家ではないからだね。僕が言っていることのなかでおかしいところが誰かに訂正してもらえて、しかも人格攻撃をされないで済むのは、民主主義のよいところなのだと言えるね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?