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ゼロ和ゲームと「日本的な」貧困

格差社会、つまり一見すると豊かな先進国における新しい貧困は、それまで当たり前に可能だったものが不可逆的に失われる形で進行する。私たちが日々目撃している限りでは、その貧困は社会から「無駄なもの」を省くという努力がますます貧困を促進するという皮肉な矛盾によって加速する。

この矛盾はシンプルに、「貧しい人が増えれば社会は貧しくなる」にも関わらず、社会は「貧しい人を増やすこと」を歓迎せずにはいられない、という形で発現する。

この新しい形式の貧困の最大の特徴は、貧困者それ自体が貧困者を憎悪する点にある。たとえばアメリカの白人貧困層は、格差社会やその上流にある富裕層ではなく、自分たちの仕事を奪う移民(つまり自分たちと同等の、あるいはそれ以上の弱者)を差別し、むしろ社会保障を縮小する新自由主義的な文脈での「保守派」に転じる。日本でもこのような光景は見るに事欠かない―――生活保護叩きや貧困者の救済を訴える言論に対する攻撃的なムードは、「誰かが救われるのを見るくらいなら私が貧困に耐えるほうがましだ」というレベルにまで落ち込んだ絶望的な精神状態を表現している。

スロヴェニアにはこの「全体を貧しくする羨望」についての訓話がある。



その農夫は善良な魔女からこう言われる。「なんでも望みを叶えてやろう。でも言っておくが、おまえの隣人には同じことを二倍叶えてやるぞ」。農夫は一瞬考えてから、悪賢そうな微笑を浮かべ、魔女に言う。「おれの目をひとつ取ってくれ」。(「ラカンはこう読め!」スラヴォイ・ジジェク)



このテーマは、長いスプーンで互いに食事を分け与えることを拒んだために餓えてゆく地獄の亡者の登場する訓話にも繋がっている。利己的な選択は全体の損失を生むばかりだが、餓えによる精神的な貧困がますます「利己的な選択」を加速するのだ。

それでは、全体の損失となる選択を、まさにその犠牲となる個人が選択する陰に潜むイデオロギーは何か。その中核にあるものは、「メッセージ(2017)」で映画化された「あなたの人生の物語(テッド・チャン)」の中でもキーになっている「ゼロ和ゲーム」である。

ゼロ和ゲームの考え方は至って簡単だ。それは「全体の損益の総和がゼロになること」、言い換えれば「誰かが得すれば誰かが損をし」、「誰かが損すれば誰かが得する」という、限られたパイを奪い合う人間たちの思想である。


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△ゼロ和ゲームでは誰かが損しなければ得することもできない。

たとえば、搾取はその手段のうちの一つ。



ゼロ和ゲームの世界で他人の災難や不幸が歓迎されるのは、ひとえに他者の損失は自己の利益に繋がるという素朴な信念による。「誰かがひどい目に遭ったのだとしたら、それは私にとって良いことであるに違いない。」

たとえば直近のコロナ禍に対する一部の新自由主義者の見解は、この災禍はたしかに苦境に置かれた企業や個人事業主を駆逐するかもしれないが、それはもともと経営形態に問題があったのが原因であり、事態が収束する頃にはより合理化された強靭な組織が生き残るだろうという<雨降って地固まる理論>である。あるいは、日本のあるコメディアンは災禍にともなう「女性の貧困者の増加」が風俗産業の人員補充に繋がり、結果的にサービスの向上が望めるだろうとの見解を示し、批判を集めることになった。

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